1/2「世阿弥の《風姿花伝》について ー 立原正秋」角川文庫 男の美学 から

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1/2「世阿弥の《風姿花伝》について ー 立原正秋」角川文庫 男の美学 から


中世の能の大成者である世阿弥の〈風姿花伝〉について簡単にその出逢いを語りたいと思います。私は一介の文士にすぎませんので、考証的なことは避け、彼との出逢い、つまり世阿弥が私の裡(うち)をどのようなかたちでよぎって行ったか、また、私が世阿弥の世界をどういう風に受けとめながら通りすぎて来たかをおはなし申しあげ、それが、みなさんの読書案内の一助になればと思います。
風姿花伝〉は単に〈花伝書〉とも言われており、能役者のための能楽論書です。応永七年の春から九年の春にかけて世阿弥によって書かれました。足利義満の時代です。花のかたち、花の姿を伝える書と申しましょうか、これは、単に私達の目に映る四季おりおりに咲く花ということではなく、能役者の完成し た芸の美しさ、風姿の美しさをさしているのは申すまでもありません。一例をあげますと、女の美しさが花であるとすれば、その女にも二十代、三十代があり、年齢に応じた美しさがある、その花のことを言っているのだ、と思います。「花なくては萎(しお)れ所無益(むやく)なり」とも言っています。もちろん世阿弥はこれらを能舞台に還元した上で言っているわけです。
私と〈花伝書〉との出逢いは二十代のはじめでした。それより以前、旧制中学で大学の受験勉強をしていた頃、鴨長明の歌論書の〈無明抄〉、本居宣長の歌論書である〈初山踏〉を読んで、歌論にもこれだけちがいがある、と思ったことがありました。ちがいがあるとは、二つの歌論書がそれぞれに秀(すぐ)れていた、ということです。ところ が、能楽論は、世阿弥のほかに、世阿弥の事実上の後継者であった金春禅竹(こんぱるぜんちく)も〈至道要抄〉〈五音三曲集〉など五つの本をあらわしており、また、この禅竹の孫である金春禅鳳にも能楽論があり、このほか、室町末期から江戸初期にかけまして、数多くの能役者が、数多(あまた)の能楽論を書きのこしておりますが、しかし、世阿弥能楽論を超える書は見あたりません。世阿弥には、この〈花伝書〉のほかに、八十一歳で没するまで、〈至花道〉、〈能作書〉など、いわゆる世阿弥十六部集といわれる二十一種の能楽論がありますが、いずれも能役者のための伝書です。ところが、この伝書が、能の世界を超えてひとつの明確な芸術論になっているのが、他の世界の伝書とはことなる特色になって おります。世阿弥が若年の私をとらえたのは、このたしかな芸術論のためでした。彼は能役者であり、曲の作者であり、能の理論家であり、その理論を文字にした文章家でした。
能は、はじめ、奈良時代に中国から伝わった散楽が源で、のちに猿楽、田楽に発展し、これを、世阿弥の父の観阿弥が、いわゆる今日の能芸にまで高め、さらにそれを世阿弥が「芸」を「道」にまでたかめ、「道」はすなわち「美」であり「倫理」である、という場所まで高めたのでした。これは、世阿弥の役者としての体験がうんだ芸術的自覚なくしてはなし得ない大事業であったと思います。つまり、田楽、猿楽は、芸術としての演劇ではなかったのです。せいぜい田舎のおまつりで舞われる物まねにすぎなかったのを、観阿弥、世 阿弥父子が、演劇にまでたかめたのでした。観阿弥世阿弥以上にすぐれた芸術家であったことは〈花伝書〉のなかで、世阿弥がしばしば父についてふれていることでもわかりますが、世阿弥は、父を、肉身の者以上に芸術家として尊敬していたようです。これだけはっきりした芸術的創造もほかにあまり例を見ません。かつて〈花伝書〉を註釈しました野上豊一郎博士は、わが能楽を、ギリシャ悲劇に比肩すべきかたちだと述べたことがありますが、私の偏見によりますと、わが能楽は、ギリシャ悲劇をはるかに超える演劇形式です。ギリシャ悲劇には、台本書きがおり、役者がおりました。しかし、ただそれだけでした。ひとつの演劇形式を、道にまで高め、道はすなわち美であり、倫理がそのまま美でありあり 得る演劇は、わが能楽をおいて他にありません。
お話を、〈風姿花伝〉にもどしましょう。世阿弥はこの本の序の章で、つぎのように述べております。

此道に至らんと思はん者は、非道を行ずべからず。

この道とは能楽です。能楽をきわめようとする者は非道を行なってはいけない、非道とは、能楽以外の諸々の芸道のことです。世阿弥は、役者が演ずる芸能を、道とよんでおります。そして、好色、博奕、大酒の三つを重く戒めております。つまり能に深く入って徹底しろ、と言っているわけです。彼がなぜ能楽を道とよんだのか、これは別の機会にゆずらねばなりませんが、かんたんに申しあげますと、世阿弥道元の影響を大きく受けており〈花伝書〉を書くかなり以前に、道元の〈正法眼蔵〉などから、禅の影響を受けていたからでありま す。御承知のように、道元は中国に渡って禅の奥義をきわめてきた禅僧です。〈花伝書〉第三の「問答條々」は、

問、抑(そもそも)、申楽(さるがく)を初むるに、当日に臨んで、先、座敷を見て、吉凶をかねて知る事は、いかなる事ぞや。
答、此事(このこと)、一大事なり.......云々。

というように、まるで禅問答のような形をとって、質問と教えのかたちを述べておりますが、これはあきらかに禅の影響、ひいては道元の影響かと思われます。
しからば、世阿弥の言う能楽の道とはなにか.....彼は、〈花伝書〉の第一の「年来稽古條々」に、七歳の頃の能、十二、三よりの能、十七、八の能、二十四、五、三十四、五、四十四、五、五十有余、と年齢別にわけ、七歳の頃では、

その物自然とし出 だす事に得たる風体あるべからず。

と述べております。なにも知らない子供だから、本人が自然と独創で演じ出すわざがあり、したがって堂にいった風体がうちだせる、といっているのです。しかし、すぐつぎに、

さのみに、善き、悪しきを教ふべからず。あまり痛く諫むれば、童は気を失ひて、能、物くさくなりたちぬれば、やがて、能はとまる也。

と述べております。七歳の子に、これは良い、これは悪い、と教えてはいけない、あまり叱ると勇気をうしなってわざがとまってしまう、と言っています。
十二、三の頃では、

此年の比(ころ)よりは、はや、やうやう、声も調子にかかり、能も心づく比なれば、次第次第に、物数をも教ふべし。

と述べております。能を理解できる年頃 だから、物数を教えてもよい。物数とは、能の種々の技術、曲目のことです。
そして二十四、五歳の項目では、

この比、一期の芸能の、定まる始めなり。

と述べております。そして更に、一期の芸の定まる年頃だから、その場で見た目の美しさだけの芸を演じてはいけない、たとえ、人もほめ、一時的なめずらしい舞台を見せても、それはやがて花が失せる芸となろう、と述べております。私は、若年の頃、自分の小説作法としてこの文章を読んだことがあります。
三十四、五歳の項では、

此比の能、盛りの極めない、

と述べています。世阿弥は、この〈花伝書〉を、この盛りのきわめの年頃に書いております。彼が三十八歳のときでした。
五十有余の項では、

まことに得たりし 花なるが故に、能は、枝葉も少く、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼(ま)のあたり、老骨に残りし花の証?なり。

と述べております。得たりし花とは、本当に体得した芸の花のことです。枝葉も少く、老木になるまではは散らで残りしなりとは、能の風体を木にたとえ、芸が枯淡になるたとえです。