「蘊蓄 - 筒井康隆」講談社文庫 創作の極意と掟 から

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「蘊蓄 - 筒井康隆講談社文庫 創作の極意と掟 から

情報小説と呼ばれている一群の作品があって、これは個個の小説のテーマにかかわる情報を盛り沢山に書き込んだものである。これが退屈なのは、その情報というのが取材してきたことのずべてを長ながと紹介するものであったり、ひどい時にはネットからのコピー&ペースト所謂コピペだけのものであったりするからだ。例えば推理小説で警察の機構つまり警視庁と警察庁の違いとか、階級制度であるとか、犯罪の手口とかを本筋に関係なくえんえんと紹介するといった類いの作品である。いかに緻密に調査してきたものであっても、こういうものは通常、蘊蓄とは言わない。単なる情報である。だから多くの情報小説は非文学的であり、文学作品よりは下位のものと見做されて しまう。
テーマに関係なくても、料理の作り方などをやや文学的に述べ立てているものも小説には多い。無論その中には真に蘊蓄と言えるものも含まれているから、書きかたにもよるが一概に否定はできない。料理で言うならば、池波正太郎の時代小説に登場する料理の数数だ。旧制小学校卒業後すぐに就職し、その頃から給料のほとんどを使い、気に入った店で食べたいものを食べてきた人であり、さらには江戸時代からの食材や料理方を知り尽して書いているのだから、他の作家にはまず真似できないのである。こういうものこそ小説に書かれて然るべき蘊蓄と言っていいだろう。つまり小説における蘊蓄と情報との違いは、作者がそれとどれだけ長期にわたり情熱をもってかかわりあってきたかどうかにかか っている。
インターネットのない時代、コピペに替わるものはといえば百科事典であった。グーグルでググったりするのとは違ってこれは各専門家が責任を持って書いているから今でもこれを利用している作家は多いが、してはならぬことは、いかに引用されることが前提のひとつである百科事典からとは言え、一項目全体をまるまる引き写すなどのことである。ある作家は歌舞伎の演目のひとつについて、その筋書きをまるごと引用した。これがなぜ発覚したかというと、当然のことながら校正係というのは原稿に間違いがないかを百科事典などで調べるためだ。
作家にとって披瀝(ひれき)できる蘊蓄が多いことはたいへんな価値があり、誇るべき長所でもある。小生にとって残念ながらそんな蘊蓄を垂れることができる のはせいぜい映画に関することくらいであり、その程度の蘊蓄ならばもっと詳しい人はいくらでもいる。あとは断編的に文芸であったりスゥイング・ジャズであったり芝居であったりという程度だ。だから神が宿るべき細部にしたって、いちいちその道のプロにお伺いを立てなければならない。細部の蘊蓄でもって人を驚かせようとするならば、少なくともその道のプロにまでおっ、と思わせるようなものでなくてはなるまい。そのためには誰でも知ることができる情報ではなく、特別な情報源によるものでなければならぬ。
富豪刑事」シリーズを書いた時には警察の機構を知るため佐野洋からさまざまな情報を得た。佐野さんは新聞記者時代にサツ廻りをしていたから、これほど推理作家向きの人はいないだろう。また同じシリーズで「ホテルの富豪刑事」を書いた時には、もとホテルマンの森村誠一から、他からは得られぬ貴重な情報を戴いた。夜間のホテル側のスタッフはどうなっているかを訊ねた時、「スケルトン・スタッフ」という呼称を教えてもらったのである。今まで推理小説とは縁が薄く、しかもSFというあまり情報を必要としない作品を書いてきた小生にとっては、そうした細部の蘊蓄で小説のリアリティを出す試みの最初のケースだった。
蘊蓄というものは本来、文学作品にあって は表現の 多様性に奉仕するものでなければならず、エンタメ系の作品にとってはあくまでリアリティ乃至面白さに奉仕するものでなければなるまい。蘊蓄が豊富であればあるほどそれは作品が最も必要とする部分だけを効果的に述べることによって、神の宿る細部となるであろう。経済機構のことを知る目的で城山三郎を読む人はいないのだ。
しかし蘊蓄を面白く読ませる技術を持つ作家について、これは当てはまらない。いい例が丸谷才一である。「女ざかり」にしろ「輝く日の宮」にしろ「持ち重りする薔薇の花」にしろ、時には一見本筋と関係なさそうに思える蘊蓄が登場人物や作者によって語られるのだが、これはごく普通の知識や知性を持つ読者にとっても実に面白く、しかもそこいら辺の専門書などでは享受で きない、新しいモダニズム思想による蘊蓄だからこたえられないのである。丸谷さんに「文学のレッスン」というインタビューによる著作があるが、その造詣の深さは驚くばかりであり、おれはこんな凄い人と平気で対談などで話していたのだと思うと慄然とするのであるが、よく考えてみれば話す以前からその凄さはよく知っていたのであり、蛇に怖じない盲である無謀さこそがおれの作家性であり小説家としての良さなのだと自分を慰めるしかない。
池波正太郎の例でもわかるように、蘊蓄の中で最も罪のないものは料理であろう。料理ならだれだって興味を持っているし、誰でも味覚を刺戟されるからだ。小生に関して言えば戦後すぐ、まだ食糧事情が悪かった時代に読んだブラスコ・イバーニェスの「地中 海」に出てくる旨そうな料理の描写にたまらなくなったま記憶がある。この作家の作品は映画になったため「血と砂」が有名だが、「われらの海」という意味の原題「マーレ・ノストルム」は地中海の意味でもあり、主人公が持つ船もそう名づけられている。この船の賄方をしている「まひまひつぶろ爺(とつ)つあん」が作る地中海料理たるや、主材料が米であるため尚さら当時のわが食欲をそそったのだ。

熱帯の諸港で、船員がバナナ、パイナップル、アグアカーテに食べ飽くと、米に鱈と馬鈴薯を炊きこんだ大鍋、または狐色の面に埃及豆の赤つ面と血入れ腸詰の黒い背中とを覗かせた蒸焼き鍋が歓呼で迎へられた。また、ある時は、北の海の鉛色な空の下でも、遠い故国を思ひ出させに、この賄方、寺臭いをかひじき飯わ、蕪と隠元を入れた、ばた色飯などを食はせた。
『殉教者』サン・ビセンテとか、サン・ビセンテフェレールとか寄邊渚の聖母(ビルヘン・デ・ロズ・デサンパラードス)とか、グラオの基督とかいふバレンシアの聖者達、これこれ、『まひまひつぶろ爺つあん』に言わせると、天国の主だった方々ださうだが、さういう聖者の祭日や、日曜日には、湯気の立つパエーリ ャが現はれた。これは、闘牛場のように丸い大鍋で、充分にふくれた米粒を敷砂に、さまざまの鳥が五體を裂かれて、載っていた。賄方は一同を驚かしに生の玉葱の見事なやつ、眼に涙させる烈しい香を放つて、象牙のやうに白いのを分配(わけど)らせる。秘かに貯へられた王侯の奢とはこれだつた。拳骨をくれて割りさへすれば、固い身がすぐにはじけて、あとは、甘がらいパンのさくさくと音を立てるやうに、匙で喰ふ米飯と交はりばんこ、口の中に解けてしまふのだ。(略)
漁場の港に碇泊する時には、アバンダ飯を炊くといふ大それた贅に出でた。賄方の下働きが總がかりで、船長の食卓へ、バタのやうに脂つこい魚が、伊勢蝦、浅蜊その他有りとあらゆる磯物と一緒くたに、さんざつぱら煮られた大鍋を持 ち出す。賄方みづからは、黄ろくばらばらな飯を山盛りにした、大皿を持ちだすのが特別な名誉なのだ。
アバンダ(別炊き)の米は、粒々が鍋の出し汁に浸み切つてゐた。つまり、海のあらゆる滋味を含ませ切つた飯なのだ。祭壇の儀式でも行ふやうに、卓子(テーブル)をかこむ一人一人へ、二つ切りのレモンを行き渡らせる。飯は香ひ高いその露を滴らして後、初めて賞美されなければいけない。これこそは希臘の花園の大盤振舞ひを想ひおこさせるもの、この美味を知らないのは海に遠い國の不仕合者ばかりだ。いい加減な米料理をアーロス・ア・ラ・バレンシアーナ(バレンシア風米飯の意)と呼んで、平気でゐられるのは、たしかに不仕合者で。
(永田寛定・訳)

イバーニェスの蘊蓄は料理だけにとどまら ない。地中海沿岸各都市の歴史や港湾の風景や海洋の描写など、作者の地中海への思い入れが、本筋であるメロドラマとさほど変わらぬ分量で挿入されていて、まさにこれは全篇が地中海讃歌の叙事詩になっているのだ。ただし、主人公がナポリの水族館へ行くくだりはいただけない。上下二段組のえんえん十八ページにわたって魚介類の形態や生態、海底の捕食関係や物質環境に至るまでを書き尽くしているのだ。小生さすがにこの部分だけは辟易して読み飛ばしたのだが、これなどは当時の市民を教育する目的の情報だったのかもしれない。何しろ書かれたのが一九一七年、こうした知識を得る手段を持たない読者が多かった時代だったのである。