「武蔵野 - 国木田独歩」文春文庫 教科書でおぼえた名文 から
武蔵野を散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路(みち)でも足の向く方へゆけば必ず其処(そこ)そこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただ其縦横に通ずる数千条の路を当(あて)もなく歩くことに由(よつ)て始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨(しぐれ)にも、ただ此路をぶらぶら歩て思いつき次第に右し左すれば随処に吾等(われら)を満足さするものがある。これが実に又た、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。武蔵野を除いて日本に此様な処が何処にあるか。北海道の原野には無論の事、那須野にもない、其外何処にあるか。林と野とが斯(か)くも能(よ) く入り乱れて、生活と自然とが斯(こ)の様に密接して居る処が何処にあるか。実に武蔵野に斯(かか)る特殊の路のあるのは此の故(ゆえ)である。されば君若し、一の小径を往き、忽(たちま)ち三筋に分るる処に出たなら困るに及ばない、君の杖を立てて其倒れた方に往き玉(たま)え。或は其路が君を小さな林に導く。林の中ごろに到(いたつ)て又た二つに分れたら、其小なる路を撰んで見玉え。或は其路が君を妙な処へ導く。これは林の奥の古い墓地で苔むす墓が四つ五つ並で其前に少し許りの空地があって、其横の方に女郎花(おみなえし)など咲て居ることもあろう。頭の上の梢で小鳥が鳴て居たら君の幸福である。すぐ引きかえして左の路を進んで見玉え。忽ち林が尽て君の前に見わたしの広い野が開ける。足元から 少しだらだら下(さが)りに成り萱(かや)が一面に生え、尾花の末が日に光って居る。萱原の先きが畑で、畑の先に背の低い林が一叢(ひとむら)繁り、其林の上に遠い杉の小杜(こもり)が見え、地平線の上に淡々(あわあわ)しい雲が集(あつまつ)て居て雲の色にまがいそうな連山が其間に少しずつ見える。十月小春の日の光のどかに照り、小気味よい風がそよそよと吹く。若し萱原の方へ下りてゆくと、今まで見えた広い景色が悉(ことごと)く隠れてしまって、小さな谷の底に出るだろう。思いがけなく細長い池が萱原と林との間に隠れて居たのを発見する。水は清く澄で、大空を横ぎる白雲の断片を鮮かに映している。水のほとり(難漢字)には枯蘆が少しばかり生えている。此池のほとりの径を暫くゆくと又た二つに分れる 。右にゆけば林、左にゆけば坂。きみは必ず坂をのぼるだろう。兎角(とかく)武蔵野を散歩するのは高い処高い処と撰びたくなるのはなんとかして広い眺望を求むるからで、それで其の望は容易に達せられない。見下ろす様な眺望は決して出来ない。それは初めからあきらめたがいい。
若し君、何かの必要で道を尋ねたく思わば、畑の真中に居る農夫にきき玉え。農夫が四十以上の人であったなら、大声をあげて尋ねて見玉え。驚て此方(こなた)を向き、大声で教えて呉れるだろう。若し少女(おとめ)であったなら近づいて小声できき玉え。もし若者であったら、帽を取て慇懃に問い玉え。鷹揚(おうよう)に教えて呉れるだろう。怒ってはならない、これが東京近在の若者の癖であるから。
教えられた道をゆくと、 道が又た二つに分れる。教えて呉れた方の道は余りに小さくて少し変だと思っても其通りにゆき玉え、突然農家の庭先に出るだろう。果して変だと驚てはいけぬ。其時農家で尋ねて見玉え、門を出るとすぐ往来ですよと、すげなく答えるだろう。農家の門を外に出て見ると果して見覚えのある往来、なる程これが近道だなと君は思わず微笑をもらす、其時初めて教えて呉れた道の有難さが解るだろう。
真直(まつすぐ)な路で両側共十分黄葉した林が四五丁も続く処に出る事がある。此路を独り静かに歩む事のどんなに楽しかろう。右側の林の頂は夕照鮮かにかがやいて居る。おりおり落葉の音が聞える計(ばか)り、四辺(あたり)はしんとして如何にも淋しい。前にも後にも人影見えず、誰にも遇(あ)わず。若し其れが 木葉落ちつくした頃ならば、路は落葉に埋(うずも)れて、一足毎にがさがさと音がする。林は奥まで見すかされ、梢の先は針の如く細く蒼空を指している。猶更ら人に遇わない。愈々(いよいよ)淋しい。落葉ふむ自分の足音ばかり高く、時に一羽の山鳩あわただしく飛び去る羽音に驚かされる計り。
同じ路をひきかえして帰るのは愚である。迷った処が今の武蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困る事もあるまい。帰りも矢張凡(およ)その方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染て、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に走て、終は暗澹 (あんたん)たる雲のうちに没してしまう。
日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする。寒さが身にしむ。其時は路をいそぎ玉え、顧みて思わず新月が枯林(こりん)の梢の横に寒い光を放ているのを見る。風が今にも梢から月を吹き落しそうである。突然又た野に出る。君は其時、
山は暮れ野は黄昏の薄(すすき)かな
の名句を思いだすだろう。