「ふたたび美醜について ー 福田恆存」ちくま文庫 私の幸福論 から

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「ふたたび美醜について ー 福田恆存ちくま文庫 私の幸福論 から

ふたたび美醜について述べなければならなくなりました。というのは、読者の一部から強い不満を訴えられたからです。それは二三通の手紙ではありましたが、かなり多くの読者の考えを表しているものとおもわれます。前といくぶん重複するかもしれませんが、もう一度、私の考えを書いてみましょう。
私のいいたかったことは、男にとっても男にとっても、顔だちのよさ、悪さが、生涯の幸、不幸に、大きな影響を与えるということであります。いま、読みなおしてみると、ことばづかいに多少不注意のところがありました。それはお許しいただきます。醜く生れついたものは不幸だと書きましたが、むしろ単純に「損をする」と 書くべきだったとおもいます。私は、世間一般が用いている「幸福」ということばを、そのまま不用意に使ってしまったのがいけなかった。自分でたびたび、真の幸福と世間でいう幸福とはちがうということを強調しておきながら、つい、そういう失敗をしてしまいました。ここに訂正いたします。人は美しく生れついただけで、ずいぶん得をする、あるいは世間でいう幸福な生涯を送りうる機会に恵まれる、と。
しかし、つぎに私がいいたかったことは、醜いと損をするということ自体よりは、そういう現実からけっして眼をそらすなということであります。なぜ、そんなことをいうかと申しますと、じつは誰だって、顔の美醜が現状社会では大きな役割をはたしていることを承知しているのに、というよりは、 よく承知しているからこそ、わざと眼をそむけたいという気もちが働くので、それがかえってひとびとを不幸に陥れるもとになるとおもうからです。
ここに、醜い顔だちをした女性の、心理の動きの極端な型を分析してみましょう。私の知っている女性です。といっても、一度しか会ったことはありません。知人の紹介状をもって、就職の依頼に来たのです。私はある出版社の応接室でそのひとに会いました。その日はちょうど座談会のあるときで、十分くらいしか話せませんでした。私はそのひとから大体の希望をききましたが、いまは就職が大変むずかしいときですし、私自身が非力であることを話し、二三の心あたりに紹介状をしたためて渡しました。ゆっくり話をするひまもなく、そこの出版社のひとにう ながされて、座談会の席に出かけたのです。
そのあとで、私はこの女性から手紙をもらいました。そのひとは、私がいやいや会ったといって、軽い非難のことばを書いてきたのです。非難といっては当たらぬかもしれません。むしろ自分の過去の不運をこまかに書いて、一面識もない私に就職の依頼をしたことをわびているのです。
それはいいのですが、そのひとのいう過去の不運というのは、姉にくらべて自分が醜く生れついたということ、小さいときから、周囲のものにそういわれて育ったということなのです。が、正直な話、私はそのひとを醜いとはおもわなかった。もちろん美人ともおもいませんでしたが、普通の顔だちだったように記憶しております。ところで、そのひとは私と会ったとき、私が忙 しそうにしていたためでしょう、自分が醜いから、男の私がうるさそうにしていたと解釈しているのです。
そういわれてみて、私は反省しました。なるほど、私はあの女性が醜いからそっけなくしていたのではなく、忙しかったからそわそわしていたのにちがいのですが、しかし、もし、そのひとが眼のさめるような美人だったら、どうだったか。もうすこし落ちついて話し、ひょっとするともう一度そのひとにあえるようなところへ話をもっていったかもしれない。良い悪いの問題ではなく、それが人情というものでしょう。私たちはこの事実を認めぬわけにはいかぬのです。いや、その女性自身、はっきりそれを認めているばかりか、そのとき私自身の意識しなかったことまでかぎつけているのです。醜いがゆ えに、あるいは美しくないがゆえに自分は損をしている、と。
このひとは、美しい姉をもったために、自分をことさら醜いものと見なそうとする傾向をもっておりますが、この心理はじつはデリケイトなもので、私にいわせれば、一種の欲ばりなのです。というのは、美しい姉といっしょに育てられ、いつも姉のほうがちやほやされるのを見せつけられてきたわけですが、そのため、自分が姉同様にちやほやされないのを苦痛におもうようになり、さらに姉同様にちやほやされることを望むようになってしまったのでしょう。もし姉妹そろっておなじような器量に生れついていたら、そういうひがみと欲とは起らなかったかもしれないのです。
顔の美醜にかぎりますまい。こういう心理はいたるところに見られ ます。貧富もそれです。美は持てるもの、醜は持たざるものです。世間に出ていって、金のあるものが貧乏人より、他人からちやほやされるという事実は、どうしても否定しがたいことです。貧富の差をなくしても、また他のところで優劣が出てくるでしょうし、どんな世のなかがきても、優者と劣者とがある以上、優者のほうが劣者よりもてはやされるということは、とうにもしかたのないことなのです。