1/2「スリラー映画 ー 松本清張」ちくま文庫 文豪が愛した映画たち から

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1/2「スリラー映画 ー 松本清張ちくま文庫 文豪が愛した映画たち から

小説と映画

いま、読書界では推理小説ブームと言われているが、映画界にもスリラーものが勃興してきた。勃興というほどでもないかも知れないが、とにかくその数が多くなりそうである。
最近の映画は小説に接近したように思える。どちらが近づいてきたのか知らないが、多分、映画の方が小説の要素に傾いたのではなかろうか。私は小説の映画化の傾向を言っているのではない。観客が読者を兼ねている現象をいうのである。一般の読者は、いわゆる中間小説のひろがりによって、かなり眼が高くなっている。しかし、これはあくまで一般論で、つまり、中間小説は、より低い読者も、 より高い 読者も吸収してふくれ、この読者層の眼が映画に向いていると言いたいのである。言いかえると、映画の観客の眼が、中間小説程度に変ったと言うべきであろうか。映画の製作者さそれを承知している。その証拠に、近ごろの映画の多くは中間小説程度の知性と面白さをもっている。
しかし、中間小説も、そろそろ壁につき当ろうとしている。相も変らぬお話ばかりでは読者が飽いてくるのは当然だ。このマンネリズムの隙間から推理小説、もしくはその手法を応用した小説が進出してきたように、映画でもスリラー的なものが伸びてくるように考えられそうだ。
映画が商業主義的である以上、製作者がいかにして観客を集めるかに腐心するのは当然である。うけることを狙う点ではジャーナリズムより露骨か も知れない。彼らは絶えず迷える昆虫のように鋭敏な触角を働かしている。この場合、小説の読者の傾向が有力なデータになることは無論である。
雑誌の編集者が小説のマンネリズムに苦悶しているように、映画製作者も作品のそれに困惑している。現在までのところ、日本の映画はメロドラマ的な要素を多くもったものが主流であった。映画製作者は、そういうものを作っていさえすれば間違いないと信じてきた。だが、それは作品自体の行詰りと、観客大衆の眼が洗練されてきた理由でくずれてきた。映画評がマスコミに乗ってひろく大衆の眼についてきたこともその原因の一つになろう。映画製作者が封切に先だって載る新聞や週刊誌の批評をどんなに気にしているが、今ほど著しいときは過去にはなかった であろう。それは興業成績を左右するくらいに影響があると彼らは考えている。観客はそれほど成長したのである。
このことは、メロドラマの行詰りを破るため、今後つくられるであろうスリラーものに警告てなろう。ありきたりの通俗ものでは、決して観客は満足しない。ピストルが鳴り、刺激的な場面がつづき、はらはらする追跡がはじまり、武装警官が大挙出動で解決する在来のチャチなものでは、観客はあくびをするか逃げ出すに違いない。また、今どきこんな古い型を踏襲しようとする製作者もいないであろう。
また、スリラーと言えば、たとえば麻薬窟や暴力街や密輸団の道具立てに使わなければ成立しないと考える製作者も次第に少くなるだろう。これも古い型だとは彼らも承知している。
で は、これからのスリラーものはどのように作られるべきか。映画製作者は腕を組んで考え込んでいるに違いない。

ドラマは人間の拡大(エンラージ)

私はこの本のはじめに、日本の古い探偵小説が詰らないのは、トリックや意外性のために、人物の性格が類型的であり、心理がないからであると書いた。いったい、現実性のない心理に読者がどうして興味を持ちえよう。現実性と言っても、私は実在性のことを言っているのではない。よしそれが非実在的なものであっても、その世界がわれわれと共感していれば、つまり普通では気づかぬ自分の潜在している心理に共通していれば現実性を感じるのである。『黒猫』や『アッシャー家の没落』を読んでいてもその時間、少しも荒唐無稽の空疎を感じないのはそのためである。しかし、これはポーのような天才だけがよくすることで、日本の下手な亜流を読まされてはたまらない。
このことは、そのままスリラー映画にあてはめたい。スリラーといえば恐怖を与えればよしと思い、縁日に出る化物小屋みたいに道具責めしても、それはスリラーではない。「フランケンシュタインもの」が三級品以下であるゆえんである。
現在のわれわれの恐怖は、生首やぶら下った血染めの片腕ではない。それはあくまで日常の生活から出発していなければならない。普段の心理から理解されなければならない。
われわれは平凡な生活をくり返している。しかし、現代の複雑な対人関係は無数の糸によって相互につながっている。この糸は利益関係という形而下の生活条件の上に、それぞれの心理という形而上の現象が絡み合っている。われわれはいつも他人に対して無形 の加害者 であると同時に被害者である。また、誰もが日ごろは気づかぬ潜在意識をもっている。何事もない時はそれが現われないかも知れないが、生活条件にちょっとした狂いが出たとき、そのかくれた意識が出てくるのである。現代の複雑な社会機構では、われわれは、いつ何どき、行動上の加害者になり、被害者になるか分らないのである。
その眼で自分の周囲を見ると、この平凡な生活も常に危機に満ち満ちているのだ。現代の恐怖とは、そういうものなのである。
映画はそういう現実の恐怖を出してほしい。われわれの奥に潜在している心理を掴み出して、それを拡大しとみせてほしい。もともとドラマは人間の拡大(エンラージ)である。
その心理の設定が出来たら、事件はひとりでに出来あがるであろう。 われわれの生活の上に、いつか起りかねない事件を見せつけられたら、観客はスリラーわ実感をもって観るだろう。
木々高太郎氏によると、ヒッチコックが日本に来たとき、こう言ったそうである。自分がかつてつくった映画に、幼児が時限爆弾を知らずに教会に運ぶ場面があった。観客はそれが爆弾どあるから、はらはらして見ている。何も知らない幼児は、教会に行きつくまで、途中で道草をくったり、わき見をしたりしてのろのろと歩く。爆発時間は刻々と迫るから観客は手に汗を握る。この、はらはらさせる手法がスリラーのコツだという。
ヒッチコックの説明ながら、これは単純である。だが単純なのは、それが原型だからだ。もし、時限爆弾の代りに生活上の重大な危機であり、その爆発を知らずに身近に運んでいるのが幼児でなく市井の生活者であったら、現実感は盛り上るであろう。そういうことは、一ぱいわれわれの周囲にあるからだ。