2/2「スリラー映画 ー 松本清張」ちくま文庫 文豪が愛した映画たち から

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2/2「スリラー映画 ー 松本清張ちくま文庫 文豪が愛した映画たち から 

被害者の眼

画面の人物が何も知らずに、観客だけが彼の危険を承知してなりゆきを観ているのは、たしかにスリルを生じさせるだろう。ヒッチコックの『断崖』は、画面の妻は知らないが、その夫の殺意を観客は知っている。それで、どうなることかと凝視するのだ。それは妻に同情しているからである。『裏窓』では、覗きを感づいた殺人犯が近づいてくる。覗き見をした当人は足が不自由なので逃げることが出来ない。また偵察に出た恋人が殺人者のアパートに入って行動するのを観客が気づかう。この二つがスリルのもり上げだったが、それは観客が二人に同情しているからだ。またウィリアム・ワイラーの『必死の逃亡者』では脱獄囚に家を占領された善良な市民の家庭の運命を心配し て見つめる。木下恵介の『風前の灯』では、強盗に見張りされている小市民の一家を描く。
してみると、スリラー映画にはどの人物かに観客の同情がかかっているように仕組まれているようだ。だが、これは単なる同情ではではなく、観客がその被害者の眼になっているのである。観客は被害者と同じ心理で恐怖している。そうなると、画面の被害者は観客に同化するだけの生活と心理をもっていなければならない。曖昧な性格や突飛な生活の人間では、どんなにそれが善良な人間に設定されても、観客は縁のない他人の眼で眺めるであろう。さすれば、危機を身近なものと感じないだろうし、スリルは生まれない。極端な話がキングコングにさらわれた夫人に観客はスリルを感じはしない。
被害者と同様に、加害者もまた観客の隣に住んでいる人物になっていなければならない。その点では、この人物も、観客の潜在心理と共通する性格が確立しなければならない。市民の平凡な生活が脅かされる設定は似ているが、『風前の灯』が『必死の逃亡者』にはるかに及ばないのは、小品のせいだけではなく、強盗に入ろうとするチンピラどもがまったく類型化しているからである。
ヒッチコックでも『知り過ぎた男』や『間違えられた男』は私は愚作だと思っている。前者では外国の大使館に幼児が誘拐されるという筋が、われわれの生活とは離れている。後者も、瓜二つの人間が犯罪の嫌疑をうけるという設定が、やや現実から遠い。
なるほどそういうことがあるかも知れない。ことに人相が似ているので間違えられることはよくあることだが、それを死刑囚という極限のところに設定したところに不自然さが感じられる。
いくら起りそうな事件でも、あまり特殊なものにすると普遍性がなくなり、つくりごとめく。スリラーは観客につくり話を感じさせたら、絶対に恐怖の効果を与えることが出来ない。要するに日常の平凡な生活から起る恐怖が、スリラーに実感を起させるのではあるまか。
またスリラー映画の大げさな身振りは効果を半減する。これでもか、これでもか、と観客を責め立てる演出は避けた方がよい。ことに犯罪映画をセミ・ドキュメント風に撮った方がわりと成功するのは、演出を抑えて写実を感じさせるからである。その方が内容に緊迫感を与える。それにつけても思い出すのは、黒沢明の『野良犬』である。あれは、現在の彼の意欲作などの野心作よりも傑作である。最後の場面で刑事が犯人を捕えるところはすべての音楽を消し、ただテンポのゆるいピアノの音を入れて、格闘する二人の荒い息づかいを聞かせるだけである。格闘の背景は、黒い雲も走らず、強い風も吹かず、おだやかな初秋の美しい野菊の原だ。その静けさが、精魂を尽す格闘に 恐ろしい くらいな迫真性を出した。私は『野良犬』こそ『羅生門』より黒沢の代表作だと思っている。
いま、スリラーや犯罪映画を企画するとき、映画関係者が必ずといってもよいほど『野良犬』を口に出すのは当然である。

映画の特殊性

映画と小説とは相似性があるが、相違する点も無論ある。小説は何時間も何日間もかかって読むことが出来るが、映画は二時間くらいで終了せざるをえない。この時間の拘束が、観客に考える余裕を与えない。謎解きを主とした推理小説は、読者が途中で速度をゆるめたりすることで、謎を考えることが出来るが、映画の観客は絶えず忙しく画面の流動に眼をさらされることを余儀なくされる。つまり、考えることは、映画の考えに観客がひたすら従ってゆくことだ。たとえば、『真昼の暗黒』はすぐれた映画だが、あの中の共同犯の不合理性を見せる数々の場面は、映画の考えであって観客の主観的な考えではない。
小説では、データだけを出して推理を読者に任せことが出来るが、映画ではそれは困難である。小説の読者は本を伏せて己れの推理的思考に陶酔することが出来るが、映画ではその余裕がなく、受け身に立つばかりである。謎解きを主とした推理映画のむつかしさがここにある。画面が観客に強制して説明する推理過程が、その知的の程度において、観客のそれと一致しなければ、はなはだ詰らないものになる。
それにくらべると、加害者の企みも見せ、被害者の危機も見せるスリラー映画は安心である。そこには思考の負担が少くなり、行動だけでスリルを描くことが出来る。どんなにうまい文章で描写し、読者のイメージを作らせても、現実の視覚の結像には追いつかない。
『恐怖の報酬』は何の変哲もない、危険なニトログリセリンをトラックで山に運ぶだけの話だが、文章だけではとてもあの画面ほどの迫力のあるスリル感はでない。私は原作をよんでいないが、読んでも映画ほどの戦慄は感じまい。これは映画だけがもつ特技である。
言いたいことは、スリラー映画だといって、何も特殊な世界に題材をもってゆく必要はなく、たいそうな身振りをすることもない。われわれの平凡な生活に
密着したところに置きたいのだ。危機(サスペンス)はどこにも伏在しているはずである。
映画製作者には、スリラーものでもどこかにメロドラマの添えものをしなければならぬという固陋(ころう)な妄念(もうねん)があるようである。これは意味のないことだ。作品をふやけさせる以外に何の役にも立たない。メロドラマを挿入しなければ客にうけないという信仰はもう捨てた方がよい。観客はそれほど甘くない。メロドラマ自体が壁につき当たっている現状を自覚すべきだ。何を苦しんでメロを入れるのか。
そのことがよく分かるのが、小説が映画化された場合である。必ずと言ってもよいほど必然性のないメロが注入されている。それは職人的技術だが、その故に原作も傷つき、映画も傷ついている。世にもこんな馬鹿馬鹿しい有害な作業はない。これが 改められないかぎり、優秀なスリラー映画は生まれてこない。
最後に、映画作家のオリジナリティの貧困な現状を挙げておきたい。多分、彼らはあまりに忙し過ぎるのであろう。