(巻二十一)おくれ来し人のまとひし落花かな(山本洋子)

イメージ 1

2月25日月曜日

今日の句で、

梨花散るや意中の人の待つ肩に(カナエさんのおとうさんの句)

を思い出したました。


団地の婆さんたちが貢いでいる薄汚い野良猫はどうやら冬を越せたようだ。

野良猫と程良い間合い節分草(西田美智子)

休みも4日目になり家事手伝いも大体済んで時間に余裕がある。コチコチ読書も進みます。


「戦後欲望外史-高度成長を支えた私民たち - 上野千鶴子ちくま学芸文庫 増補〈私〉探しゲーム 欲望私民社会論 



TV  - TVという「父権」

まで進みました。

『 父親とは、ヘソの緒が切れずにずるずるとつながった母と子の間に、社会というクサビを打ち込む存在だと考えられている。ほんとにオトーサンは、「社会の窓」だ。そのお父さんが、心理的にも物理的にもいなくなったとき、茶の間にずかずかふみこんだ「社会の窓」は、TVになった。しかしTVは、統制され管理された画一的な「社会の窓」である。父という個性的な存在が、それぞれユニークなかたちで持ちこむ社会ではない。』

には父権を喪失した父親として共感いたします。
わが家の場合TVではないが、は既に子離れを済ませた友人たちの事例をの引っ越しに当て嵌めようとしてあがいているようだ。個性も違えば条件も違うのだから、実状に合わせれば良いと思うのだがは持ってしまったイメージを押し付けようとする。

上野千鶴子さんのこの本は一九九二年が初版だから、現在の様子との違いは当然あるが、今に通じるところもある。
むしろ、そう言う状況の中を生きてきたのだなあと振り返るのに、山崎正和氏の『柔らかい個人主義の誕生』と同様に、よい本であります。