1/2 「地図と旅行 - 加藤秀俊」中公文庫 暮しの思想 から

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1/2 「地図と旅行 - 加藤秀俊」中公文庫 暮しの思想 から


日本文化は、かなり地理的関心の深い文化だ、とわたしは思う。それは、ことによると、柳田民俗学が教えてくれるように、日本に山が多く、山ひとつ越えることで風物がガラリとかわる、という日本文化の地域的多様性と関係しているのかもしれない。
ふるくは『風土記』がある。よく知られているように、これは、八世紀のはじめごろ書かれた日本各地の地誌であって、本文が残っているのは、常陸、出雲、播磨、豊後、肥前の五つの国だけだが、このほかにも、山城、大和、相模、など四十五の地域については、断片的な逸文がのこっている。
もちろん『風土記』は、中央政府が日本各地の地理と民情を集中管理するための政治的な文書であって、もっぱら旅情をかきたてる、現代版の、なんとか風土記とは似ても似つかぬ性質のものであったが、たとえば『出雲国風土記』のなかの「朝酌(あさくみ)の促戸(せと)の渡」の項にあるつぎのような記述などをみると、現代のわれわれも、なんとなくそこに行って、カメラをかまえてみたいような気持になってしまう。
「東に公道があり、西は平原であって、そのまんなかが渡し場になっている。このへんでは、竹カゴの仕掛けで魚をとる。春と秋が漁期で、その時期には、大小さまざまの魚がたくさんあつまって、はねあがる。なかには、仕掛けをこわしてしまうほど勢いのいい魚もある。人びとは、とれた魚をその日のうちに干物にしたりもするが、漁獲量が多いので、浜辺にはひとがあつまり、あちこちから商人がやってきて、魚市場はさわがしい。たくさんの店がならぶことになる」(現代語訳・筆者)
風土記』の記述は、さまざまな地点間の距離などに関しても正確であり、おそらく、これらの文章にそえて、各地の「地図」もそえられたであろう、といわれているが、それはよくわかっていない。だが、いずれにせよ、日本の各地域についての知識の集積は、かなり古くからすすんでいたのであった。
日本全国にわたっての国土地図は、いつできたのか。地図の歴史をのべた本によると、日本地図の最古のものは、行基がつくったものであろう、という。
しかし、これも、原図がのこっているわけではなく、江戸中期の写本でしか知ることができない。ちょうど、子どもの陣取りゲームのように、円型、あるいは半円型の「諸国」がべたべたと積みかさねられたようなかたちの地図だ。しかし、地理的正確さからいうと、行基日本図と伝えられるものは、われわれの知っている日本列島とは、似ても似つかぬ恰好をしている。要するに、それは、概念図なのであって、地理学的地図なのでは決してない。
どうやら、日本地図としてかたちがととのってくるのは、一三六〇年につくられた『拾芥抄』にのっている大日本国図である。九州が、ほとんど東西南北まんまるになっていたり、現在の東北地方がのっぺらぼうであったり、というアンバランスはいっぱいあるが、とにかく、房総半島だの紀伊半島だのはちゃんとサマになっている。
しかし、その当時に立ちもどってみれば、べつだん、国土計画が必要なわけでもなし、また、鉄道路線の計画を立てよう、というわけでもないのだから、いちおう、のんびりした地図でよかった。依然として、日本地図は概念図であるにすぎなかったし、それでよかったのである。
ところが室町時代になって、日本の地図はひとつの大きな変革をうける。いうまでもなく、この時代になって、日本の海外進出がはじまったからである。日本の商船は、南シナ海をわたって、東南アジア各地に出航した。だが、これだけの航海には、かなり正確な海図が必要だ。こんにちの地図からめれば、まだまだ幼稚だけれども、実用のための海図がこんなふうにしてつくられていった。
概念図から、地理的地図への萌芽的な移行が、このへんからはじまる。じっさい、南蛮渡来の世界地図を屏風にしてつくる、といったような雄大な趣味も、この同時代にみることができるのであった。
とはいうものの、わたしの考えでは、日本の地図の文化を特色づけるのは、行基日本地図以来の、概念図方式である。長さや面積についての正確さよりも、むしろ、地点間の「関係」に、日本人は関心をもった。そして、その関心と、美的関心とがしばしばかさなりあった。
だから、豊臣秀吉が所持したとつたえられる扇面の地図は、左半分が中国、まんなかに朝鮮半島がつき出し、右端に、日本列島が、まるでエビがはねたようなかたちでえがかれている。どんなかたちをしているかではなく、どんな位置にあるか - それは、いってみれば、”関係を表した地図”であり、地点と地点の間の関係図であるといってもよいだろう。


しかし、こんにちの日本の地図を考えるにあたって、わたしがとくに興味をもつのは江戸時代、とくに中期以降につくられたさまざまな「道中地図」である。
わたしは、ふとした偶然から、これら「道中地図」の数葉を手にいれ、くりかえし眺めてきた。そして、そのたびに日本の関係図的な地図と、旅行文化の関係を思うのである。
「道中地図」はいつごろできたものか。三井高陽の『道中記』によると、明暦年間(十七世紀なかば)にはじまったものらしいという。これに先立って、一六四六年には、大坂・江戸間の駅路図ができていたし、また、東海道五十三次が定められたのは一六〇一年のことであったから、東海道を中心とする旅行文化は、十七世紀にはじまった、といってよかろう。
これらの「道中地図」は、実用旅行地図であると同時にレジャー用地図であった。それはアマチュアの旅行者が旅立つとき、これをもっていれば、あまり、まごつかないで道中をたのしむことができる - そういう種類の旅行案内記が、道中地図というものの本質なのである。
たとえば、わたしの手もとにある「道中地図」のひとつをひろげてみよう。
まず、序論に旅装についての注意がある。もってゆくものとして「衣類、脇指、三尺手拭、手帖、矢立、耳カキ、針、糸.....」などとあり、そのなかに「綱三筋」というのがあって、これには、こんな解説がついている。
「此ノ綱ハ宿ヘ着クト勝手ヨキ処ニ引キハリオキ、手拭ナラビニ、ヌレタルモノヲホスニヨシ.......フトサハ筆ノ軸ノフトサニシテ、長サハ二間半ニスべシ」
このごろ、海外旅行の案内記などに、ホテルに泊るときの心得として、洗たくもの干し用に、ヒモをもってゆくのがよい、などと書いてあるが、そんなことは、十八世紀の「道中記」に、ちゃんと書いてある。
海外旅行で思い出したが、この「道中記」のもっている世界像はかなり雄大である。「日本東西道矩(ミチノリ)」というところに、京都を起点にして、奥州の果てまで三千五百八十七里、長崎まで千九百七十八里(六丁を一里として)という記載があるところのとなりの欄にオランダまで一万三千五百里、などという数字がのっている。
もちろん、書かれている旅行心得のなかには、いささか眉ツバもの、としかいいようのない部分もある。たとえば「落馬セヌ法」というのがある。どうやったら、旅行中、馬にのって安全でありうるのか。わたしの「道中地図」には、こう書いてある。
「馬ニ乗ルトキ、手綱トルマヘニ、人ノ見ヌヤウニ、手ノ内ニ南トイフ字ヲ三遍カキテノルべシ、落馬セヌモノナリ」
しかし、こんな、おまじないのような心得をもふくめながら、とにかく日本全国にわたって、旅行地図が出版されていた、という事実はきわめて重要である。
しかも、その出版量は、きわめて巨大であった。どれだけの部数がでたか、いや、どれだけの種類がでたかは、はっきりつかむことができないが、数年まえまでは、古本屋に、しょっちゅう出まわっていたし、値段も一部数百円であった。わたしの知人のひとりは、この「道中地図」をフスマに仕立てて、粋なインテリアにしたりしている。それほどに、「道中地図」は大量生産されていたのである。
ということは、とりもなおさず、日本の大衆旅行文化がかなりふるくからひらかれていた、ということだ。例の弥次喜多道中をふくめて、おびただしい数の庶民が、旅行に出かけていたのである。