「人間臨終愚感 - 山田風太郎」徳間書店刊 半身棺桶 から

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「人間臨終愚感 - 山田風太郎徳間書店刊 半身棺桶 から

本誌に連載した「人間臨終図鑑」で、私は古今東西の有名人の死の様相を紹介したが、その本についてあちこちからインタビューや質問を受けた。その中で、必ずといっていいほど、どういう意図でこんな本を書いたのか、死についてどう考えているのか、という問いがあった。
実は私は、死の哲学的意味を考えるためにこういう本を書いたのではない。それは九十五歳で死んだ里見が晩年に、「一期(ご)の大事という、死に対する恐怖の処理....むろん『処理』なんぞと、鼻元(はなもと)思案で片づきっこないが、私は至極簡単に、死後のことは、いくら考えたって、ほんとのことはわかりっこない、と諦めている」といっているけれど、同様に、死の意味の考察や死への心構えなど、とうてい私の力の及ぶところではないからだ。
私が持ったのは、伝記的あるいは医学的な興味である。その人々の事跡は知っているけれど、「はて、その人は何歳ごろ、どういう死に方をしたのか知らん?」と首をひねってみると、意外に知らない人物が多かったからである。
これはだれでもそうではないかと、と考えた。「図鑑」には九百二十余人の人々が収録されているが、ふつう人で、その二割でもその死に方を知っていればいいほうではないか。
ともあれ、有名人の死を総まくりしてお目にかけることにした。だれもその生涯を知らない人物を対象にしても興味の起こりようがないからである。だいいち無名の人には死の記録も残っていない。
ただし、有名人といっても、死や病気が無名人と変わるわけではない。そこで、その生涯のわかっている有名人だけ選んでも、テレビリサーチによる視聴率のように何か面白い事実が出て来るのではないか、と考えた。- たとえばこういう行動、こういう性格の人物は、こういう病気にかかり、こういう死に方をすることが多い - というような。
実際そんな事実が出て来るかも知れないが、残念ながらいまそういう統計をとったり、考察したりしているひまがない。そこでとりあえず、この本を書いていて感じたことを、散乱したかたちのまま書いてみることにする。



ところで「有名人」といっても、そんな名札をぶら下げた人があるわけではない。こちらで選らばなければならない。
それで私は、なるべく多くの人が、「ああその名なら知っている」といいそうな人物を対象にすることにした。
その結果が古今東西九百二十余りなのである。英雄偉人ばがりでなく、犯罪者などもふくめてその人数なのである。中には、「これが果してだれもが知っている有名人になるのかな」と、われながら首をかしげたものの、たまたまその人間の死について精細な記録があったために採用した例もあるが、まあ「有名人」の大半ははいっていると思う。結果的にいえば、古今東西に「有名人」は意外に少ないものだな、というのが実感だ。
現在ただいま生きている人々なら、有名人は無限に近い。ただ、それが死ぬと、ほとんどが有名人ではなくなるのである。そこで私は一つの警句(エピグラム)を思いついた。「人は死んで三日たてば、三百年前に死んだのと同然になる」いまテレビや週刊誌に名や顔の出ない日はないほどのスターやタレントでも、彼らあるいは彼女らが死ぬときは、大半忘れられているにちがいないのは、過去の例から見てもあきらかである。
人間たちはこの地上に生まれて来て、泣き、笑い、愛し、憎み、歓喜し、修羅の争いをくりひろげる。が、ほとんどそのすべてが忘れられてゆく。忘れられるのは、それら愛憎の世界が、他人から見れば無意味だからである。
そこで、ラ・ロシュフコーの可笑しくて恐ろしい(マキシム)を思う出さないわけにはゆかない。「たいていの人間は、死なないわけにはゆかないので死ぬだけのことである」 - ああ、何たる無意味なる集積、「人間生存図巻」!
さて、それはともかく私は、読者に「ああ、この人は私と同年齢で死んだのか」という興味をいだいてもらうために、年齢別にならべた。その死に方によって分類しなかった。だから必ずしも異常な死に方をとげた人物を、特に採用したつもりはなかった。
ところが、結果からみると、異常な死に方ををした人物が多く採用されている。そこで私は気がついた。異常な死に方をとげたことによって人々の記憶に残る、ということも少なくないのだ。人間、後世に名を残すには、非業の最期をとげるのも一法であると。
特に、たいした事歴のあるはずのない若い人物にその例が多い。彼らはその異常な死に方によってだけ、名を残している者が少なくない。
しかしまた、名が残ったところで何だろう。やはり夭折(ようせつ)者ほど恨みをのんで死んでいった者が多い。若くして死んで極楽往生した人間はまずいない。



いつごろからか、洪水のように外国旅行するようになった。それでおびただしい外国旅行に関する文章が発表される。
ふしぎにその中で、言葉に苦労した話を書いたものが少ない。言葉などというのは慣習で、ロンドンでは犬でも英語を解するが、日常英語を使わない日本人が、そんなに自由自在にあちらの人と会話出来るはずがないのに、それらの文章を見ると、日本語以上に、美術を語り、美食を語り、美女と語っているのに驚く。
同様に、人の死の偉大さ、悲惨さを語る文章はあっても、入院費や葬式代の苦労を語ったものはまれである。人が死ぬにあたって、死ぬ当人、残された遺族を苦しませる幾つかの要素のうち、金の心配は相当部分を占めると思われるのだが。-
ただ、珍しく正宗白鳥の場合は、その片鱗が見られる。
昭和三十七年、白鳥は膵臓ガンで入院し、2カ月後「一文もないのだから、もう家に帰りたい」といった。老妻が全財産の十七万円の札束を一枚一枚数えて見せると、白鳥は首をふるしぐさで、ゲンコで妻の顔をポンポンとぶったという。
これを読んで笑う人はまずなかろう。
それからもう一つ、安藤広重も死ぬときに、「何を申すも金次第。その金というものがないゆえ、われらの存じ寄りなんにもいわず、どうとも勝手次第身の納り、よろしく勘考いたさるべく候」
という遺書を家族に残している。
その哀切さにおいて、私はこの遺書を最も身につまされるものとしている。



金の心配と同様、死にゆく人間を意外に悩ませるのが糞の心配である。
多くの人は、排泄物の世話をかけることに、最後まで抵抗しようとする。それは世話をしてくれる人への申しわけなさと、それ以上に、自分の最後のプライドにかかわることだからだ。
徳川夢声は、腎盂炎で膿尿をもらし、オムツをあてがわれ、嫁にペニスを拭いてもらいながら、「恐れ入りますなあ」と、情けなさそうにいった。
モラエスは、世話する女が大小便の始末に一回いくらと請求したために、最後は糞尿にまみれて自殺した。
佐藤紅緑は、死床に尿瓶をさしこまれると、「無礼者!」と叫び、コーモリのようによろめきながら便所にゆこうとした。
山本周五郎も死の前日、妻の手をふりはらって便所にゆき、中で昏倒した。
伊藤整も、病院で、死の二日前まで眼をむいて宙をにらみながら、ひとりでトイレにいった。萩原朔太郎も、シーツに排泄物の布をしいて、そこへするように母や娘がいくらいっても、最後のお願いだと哀願して、枯木のような身体を便所へ抱えられていった。
武林無想庵も、二人の老女に両足を持って便所にまたがらしてもらい「こんな思いをしてまで便所へかよわなければならないとは、なんたる因果なことであろう」と、悲痛な嘆きをあげた。
明治天皇もまた、最後まで床上排便をきらい、侍従に、「臣従の道を忘れるがごとく」叱責されるほど抵抗した。
現代、人は多く禁煙したり節塩したり、ジョギングしたりエアロビクスしたりして、けんめいに長生きに努めているらしいが、あまり長生きすればこういう日を迎えなければならない。
長寿時代にはいったというけれど、それはただ生きているというだけで、「図巻」で私の見たところ、人間、八十を過ぎれば、昔と今とを問わず、だいたいがこういう、いわゆる「寝たきり老人」になることが多いようだ。「眠るがごとき大往生は当人の極楽である。同時に他人の地獄である」という警句(エピグラム)を私は作ったが、当人にもけっこう地獄である。
それにしても、この世話をしてくれる人を持った人間はまだ倖せなるかな。孤独であればどうするのか。このことに思いをはせれば、いかなる孤独に徹した鉄人も戦慄しないわけにはゆかないだろう。

*まだ続きますが、私としてはここら辺りでよろしいかと思いました。