「目刺とそば - 永田耕衣」文春文庫 そばと私 から

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「目刺とそば - 永田耕衣」文春文庫 そばと私 から

のっけから目刺の話などもち出すのは、ソバに対してすまない気もするが、そばも目刺も味の次元を大いに異にしながら、日本の美の標準である『渋さ』の美を、妙に共通してもっていると思われるからである。
むかしから、私は食物についてあまり執着というものがない。小学生じだいのべんとうのオカズの目刺がうまかった印象だけは消えないから、目刺の上等が手に入れば毎日でも食べたいと思う程度の愛着はある。しかしそれも、老来歯の衰えが目立ってきたから、思う存分味わえなくなった。

目刺やいてそのあとの火気絶えてある 下村槐太

独り焼く目刺や切に打返し 篠原温亭

木枯や目刺にのこる海のいろ 芥川龍之介

などの句には、それぞれ実感があって、その侘しさ寂しさには庶民の生活が匂いたっている。『渋さ』の美が漂っているのだ。
話はとぶが、荘子に、「真人(しんじん)は、其の寝(い)ねるや夢みず、其の覚めるや憂い無し、其の食うや甘(あま)しとせず、其の息深深(しんしん)」ということばがある。「甘しとせず」はウマしとせずと読んだ方がピッタリくるのに、土屋弘という人は、ここのところを、「其の飲食も腹に充つるのみにして、甘(あま)ない食うということは無い」と注釈している。何でもウマく食べないと胃液は出しぶり、精神は楽しまない筈だから、荘子は、食において美味をむさぼらない、美味に執着しないねが真人だ、といっているのだろう。
日蓮上人は愛飲家だったのか、「清酒」のことを「聖人」と呼び、「濁酒」のことを「賢人」といったそうだから、飲食についても高級な愛着心をもっていたのである。今日「真人」に価する美酒は果してどんな酒であろうか。愛酒家のこころを問うてみたいところだ。
ところで、いくら食にうとい私でも、例の手打という触れ出しのソバがうまいこと位は分っている。それも材料や手法の微妙なちがいで、その味は微妙に分れているのだろうが、そのへんを克明に吟味する興味も実力も私にはない。だが、一方で小島政二郎先生の「食いしん坊」ぶりを読むのは大好きであるし、たまたま京都へ出かけると、かならず「松葉」によって、ニシンソバを昼食にとることにしている位だ。それも無精者の一つ覚えで、友人に教えられてからという縁でちょっと病みついたほどのことにすぎない。
うまいといってもソバそれ自体の味は本当は分らない。その味にこだわり得ないところがある。あるいは、こだわらさぬ味といった方がよいかもしれない。容易に忘れられぬ味なのに、スッポリ忘れてしまってもいい、いわば無執着な味がソバにはあるといえる。味の哲学だろうか、こういえるならばソバの味は多分に荘子的である。「其の食うや甘しとせず」というに最適の味なのである。ニシンは、それとはまるで正反対のしつこさをもっているので、却ってソバとはしんみりと大いに調和する。どこか精を養ってくれる味を発揮して、頼りになるのである。ソバもニシンも、文字通り「渋さ」の美に徹し合っているのが、ニシンソバではあるまいか。
柳宗悦先生は、昭和三十五年三月号の「心」に、「渋さに就いて」という名文を書かれた。
「つまりどんな日本人といえども渋い味を深い美しさだと一般に認めていることに、絶大な特質があると云へよう。仮令“派手好み”の若い人々でも、自分も経験を積んだら、いつかは“渋好み”に落ちつくだらうと、予想しない者はない位である」云々といわれ『渋さ』は「日本民族の共通した高い美の標準語である」と裁断されている。ソバ自身はいつも黙っているが、よくよく観察受用すれば、簡素というか素朴そのものであり、静かな謙虚さを含蓄していてどこまでも淡々としている。その点では目刺もまた簡素で謙虚なしずけさをもっていると思う。「目刺にのこる海のいろ」は何ものにも媚びていない。謙虚な存在を辛うじて誇っているにすぎない。卑俗ではあっても、「日本民族の共通した高い美の標準語である」『渋さ』を、ソバとはかなり別の次元で持続しているのが目刺であろう。だからこのさいソバは聖人、目刺は凡人、といっても単なる座興に終ることはあるまい。臨済流にいえば「凡聖一如」ということになるのである。
それにしても、あのソバの手打ちの神技には、「人棒一如」の妖気かたちこめている。打ち手の心づかいと、棒の無心ぶりは完全に一枚となっていて、アレがソバの味だと直感せしめられる。上等のソバの味はあの棒の味だ、打ち手の人間味の味だと思う。でも、ソバという食べ物は、いつ忘れ去っても一向に差支えない素朴な味に満ちみちている。