「最後のウエスタン・カーニバル - 村松友視」毎日新聞社刊 男と女 から

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「最後のウエスタン・カーニバル - 村松友視毎日新聞社刊 男と女 から

昭和五十六(一九八一)年二月十五日に、「サヨナラ日劇フェスティバル」がゆかりの芸能人の出演で行われ、四十八年にわたるショー公演の幕を閉じた。この日のテレビ画面に、ステージの床に涙ながらの口づけをするトニー谷の姿が映し出されたのを見て、私もいささかの感慨をおぼえたものだった。
つづいて、二十二日から二十五日までの四日間、最後のウエスタン・カーニバルが開催された。そのステージには、タイガース、スパイダース、ワイルドワンズブルーコメッツ、カーナビーツなどが再編成して出演し、さらに現役のジャガーズ内田裕也ジェリー藤尾北原謙二山下敬二郎デイブ平尾などが次々に登場した。ジュリーこと沢田研二がなつかしのタイガース・メドレーを歌いまく、ショーケンこと萩原健一が「ラストタンゴを私に」などを自分のテイストで歌っている、この対照的な登場ぶりも面白かった。
私にとっての「ウエスタン・カーニバル」は、グループ・サウンズよりもやはりロカビリーだった。日劇における「ウエスタン・カーニバル」は昭和三十三(一九五八)年二月八日に一回が開催されるや、山下敬二郎、平尾昌章(現・昌晃)、ミッキー・カーチス、小坂一也、中島そのみ、水谷良重(現・八重子)らの人気が爆発し、一週間で四万五千人の観客を呼んだ。絶叫してシンガーに抱きつく女性ファンが、それまでの日本芸能界の常識を吹き飛ばし、「ウエスタン・カーニバル」は社会現象にまでなった。
第一回が大ブレイクすると、五月に第二回、八月に第三回と大成功の連続で、守屋浩、井上ひろし、釜萢ひろし(現・ムッシュかまやつ)、水原弘坂本九などの人気が次々と爆発した。これらのシンガーは、いわゆる”ジャズ喫茶”のスターであり、芸能界の王道とはまったく別の存在だったが、彼らの異常なほどの人気を、芸能界やテレビの世界も無視できなくなってゆく。それでもロカビリーの時代には、まだ”ジャズ喫茶”の匂いがあった。やがてグループ・サウンズの人気が沸騰するにおよんで、彼らはテレビのスターの中に登録されるようになっていた。
私は”ジャズ喫茶”の匂いをもった、とっぽい歌手が好きだった。山下敬二郎水原弘デイブ平尾などがそうだが、田川譲二という二番手的なスターに興味があった。不良のアニイ(難漢字)の色気をただよわせるヤンチャな顔、赤いセーターにノータックのスラックスが似合う長身、ちょっと酔わせるぜ........。といった表情で「センド・ミー・サム・ラヴィン」なんぞを歌うと比類のない魅力が立ちのぼり、歌唱力なんてクソ喰らえの気分にひたったものだった。
その田川譲二が最後の「ウエスタン・カーニバル」に出演すると知り、私は三日目の舞台を見に行った。銀座の「まり花」という店の今は引退したマダムが内田裕也に頼み、無理に裏口から入れてもらうことにした。そのマダムと従業員のヨシコ(現・マダム)、黒田征太郎長友啓典、それに私というメンバーだった。当日も超満員で、私たちは三階席にバラバラに坐るより仕方なかった。
私は、学生時代によく日劇の映画と実演の二本立に通ったが、そのときはうまくステージ脇にもぐり込み、間近かに雪村いずみ江利チエミペギー葉山などを見た。コントに出ていた渥美清を見たのも、今となっては貴重な想いでということになる。だが、三階の席からステージを見たことがなかったので、一瞬、ステージを見おろしておどろいた。
すり鉢の底にあるような遠いステージを、高い雲の上からのぞき込む.....そんな感じだったのだ。だが、そういうアングルもまた一興と、私は最後まで見とどける覚悟でステージに目を凝らした。人間の目というものは、馴れてくればそれなりにけしきをとらえてくれる。おそろしく高い位置から遠くをのぞく視座が、やがて気にならなくなったから不思議だ。
お目当ての田川譲二は、むかしと変わらぬ伊達男ぶりで、「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌った。この劇場の中で、田川譲二の歌を聴けば満足という客が俺以外に何人いるだろうか......私は、往年のジャズ喫茶の雰囲気をなつかしく思い出しながら、彼の歌を満喫した。
やがて、プログラムのマインであるジュリーが、タイガースのヒット曲を次々に、しかも楽しそうに歌った。きょう集った観客が、なつかしさを味わうのを目的の第一にして来ていることを、十分に承知したジュリーのサービス精神に、スターの真髄を見たような気がしたものだった。君だけに......とジュリーが歌えば、即座に客席がそれに呼応し、グループ・サウンズ黄金時代の興奮がそこに興奮がそこに再現されたようだった。
一方、越路吹雪が歌った「ラスト・ダンスは私に」を、自分の世界に染め直して歌うショーケンのステージには、思い出なんて忘れていまえ!という構えがあったような気がする。なつかしさにひたるつもりは俺にはない、今なんだよ今.....それがショーケンのメッセージのようにも感じられた。もしかしたらショーケンは酔ってるかも、そんな思いが私の頭をよぎった。そこには、お望み通り拒絶する、いかにもショーケンらしい世界が見えた。太陽のようなジュリーのスター性とは正反対の、漆黒の闇にまばたく妖しい星(スター)の輝やきが、そこからはたしかに放たれていた。
すべてのステージが終って、フィナーレとなった。往年の人気者であり今はスターとなった大物の余裕、この舞台をきっかけに再起をはかろうとする構え、そんな目的よりも同窓会を楽しもうぜという物腰、この舞台に立っていることの感動を涙とともにかみしめる姿.....「ウエスタン・カーニバル」の最後にふさわしい数々の表情が、舞台に満開していた。
私は、そんなステージを三階から見おろしていたが、やがてひとりの男のうごきを目で追いはじめた。その男は、大物たちに気圧(けお)されてうしろへうしろへと後ずさり気味のスターでないシンガーや若手たちを、次々にうながして「遠慮せずにも前へ出ろ」と、舞台の前面へ押し出していた。その様子は、一階や二階から平面的にステージをながめたのではとらえられない。三階からすり鉢の底を見おろしているからこそ、前列にいるスターたちのうしろで、そんなうごきをしている内田裕也を見ることができたのだ。
私は、内田裕也の中にある見えにくい気配りや気遣いをそっとのぞいた気分にひたった。だが、私はこの発見を当人に伝えるのをやめようと思った。そいいう部分を評価されることが、”ロッカー”内田裕也にとって好みでないのが目に見えているからだった。いずれにしても、私は最後の「ウエスタン・カーニバル」において、三階の最後尾という特権的な席からさまざまなけしきを堪能させてもらった。