「アーロン収容所・まえがき ー 会田雄次」中公文庫 アーロン収容所 から

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「アーロン収容所・まえがき ー 会田雄次」中公文庫 アーロン収容所 から

やっぱり、とうとう書いてしまったのか。まえがきを書こうとすると、どうしてもこのような感慨がまず最初に浮かんでくる。
これは、終戦直後から二十二年五月までの一年九ヵ月間、ビルマにおける英軍捕虜としての私の記録である。昭和十八年夏、私は教育召集によって京都の歩兵連隊に入隊した。三カ月でいったん帰宅できるだろうと考えていたところ、この京都師団は同年冬初動員され、ビルマに送られることになり、私もそのまま輸送船に乗せられることになってしまった。この私たちの師団はビルマ東部のシャン高原に進出したが、背後奥深く降下した英軍の大空挺部隊と対戦し、結果は惨憺たるものとなった。終戦直前には一切の重火器を失い、第一線兵力は当初の数十分の一に減少し、おなじように総崩れになった友軍部隊とともにビルマの東南端におしつめられ、全滅を待つ寸前であった。しかし、終戦によってからくも全滅はまぬがれ、武装解除された私たちの師団はラングーンに送られ、そこで約二年間、英軍の捕虜としてはげしい強制労働に服させられたのである。
この経験は異常なものであった。この異常という意味はちょっと説明しにくい。個人の経験としても、一擲弾筒兵として従軍し、全滅にちかい敗戦を味わいながら奇跡的にも終戦まで生きのび、捕虜生活を二年も送るということも異常といってよいかもしれない。異常といえば、日本軍が敗戦し、大部隊がそのまま外地に捕虜になるいうこと自体が、日本の歴史始まって以来の珍らしいことである。
だが私がここで異常というのは、もうすこし別の意味においてである。捕虜というものを私たちは多分こんなものだろうと想像することができる。小説や映画やいろいろの文書によっても、また、日本軍に捕えられたかつての敵国の捕虜を実際に見ることによっても、いろいろ考えることができる。私たちも終戦になったとき、これからどういうことになるだろうかと、戦友たちと想像しあった。ところが実際に経験したその捕虜生活は、およそ想像とかけちがったものだったのである。想像以上にびどいことをされたというわけでもない。よい待遇をうけたというわけでもない。たえずなぐられ蹴られる目にあったというわけでもない。私刑(リンチ)的な仕返しをうけたわけでもない。それでいて私たちは、私たちはといっていけなければ、すくなくとも私は、英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきたのである。異常な、といったのはそのことである。
ビルマで英軍に捕虜となったものの実状は、ほとんど日本には知られていない。ソ連に抑留された人びとのすさまじいばかりの苦痛は、新聞をはじめ、あらゆるマスコミの手を通じて多くの人びとに知られている。私たちの捕虜生活は、ソ連におけるように捕虜になってからおびただしい犠牲者を出したわけでもなく、大半は無事に労役を終って帰還している。だから、多分あたりまえの捕虜生活を送ったとして注目をひかなかったためもあろう。抑留期間も、ながくて二年余でしかない。そのころは内地の日本人も敗戦の傷手から立ち直るためにのみ夢中のときである。人びとの関心をほとんどひかなかったとしても無理はない。
だが、私はどうにも不安だった。このままでは気がすまなかった。私たちだけが知られざる英軍の、イギリス人の正体を垣間見た気がしてならなかったからである。いや、たしかに、たしかに、見届けたはずだ。それは恐ろしい怪物であった。この怪物が、ほとんどの全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして、そのことが全アジア人のずべての不幸の根源になってきたのだ。私たちは、それを知りながら、なおそれておなじ道を歩もうとした。この戦いに敗れたことは、やはり一つの天譴(てんけん)というべきであろう。しかし、英国はまた勝った。英国もその一員であるヨーロッパは、その後継者とともに世界の支配をやめてはいない。私たちは自分の非を知ったが、しかし相手を本当に理解したであろうか。
私たちが帰還して以来、私たちの近くには英国に対する讃嘆が渦をまいていた。近代化の模範国、民主主義の典型、言論の自由の王国、大人の国、ヒューマニズムの源流国、その賞賛のずべてが嘘だというのではない。だが、そのくらいのことは戦前でも私たちは知っていた。いや、このような長所とともに、その暗黒面も知っていた。昭和の初めごろから、敵国、すくなくとも競争相手・対立者としての見方が重きをなしてきて、それが悪の反面をも認識させることになっていたからである。
だが、戦前の二つの見方を合しても正しい見方になるのではない。それは裏と表の表面的な認識に過ぎない。その中核を形づくっている本体を見ていなかったのではないだろうか。私たちは、これまでの英国に対するすべての見方を根本的にやり直すべきではないのか。英軍の捕虜生活は私たちにそのことを示唆してくれたように思う。
私は西洋史を研究対象にしている一学徒にすぎない。イギリスの、広くはヨーロッパの社会や文化を全体的に云々することはあまりに大それたことであろう。しかし、私の研究には、この戦争や捕虜の経験が基礎体験の一つとしてはいって来ざるをえない。そうした目で見るとき、ふつうの目でながめるのと大変ちがったヨーロッパというものの特殊な姿が浮かび上がって来るのである。私としては、ふつうのつきあいで見えない本当の姿がそれだという感じを押さえることができない。そういう意味でも、そのときの体験をできるだけ生の姿で多くの方々に伝えることは、当然の義務であるようにも思ったからでもある。
このようなわけで、私としては何か多くの人びとに訴えたい気持ちに駆られていた。しかし、それを止めさせようとする力も同時に働いた。私たちの体験を異常と感じたというそのことである。この体験を、それを経験しなかった人に本当にわかってもらうことは非常にむずかしい。そのためには容易ならぬ能力が必要だと思われるけれど、私にそんな力は到底ありそうもない。それに、私たちの体験は戦争捕虜という非常事態のことである。相手も、本性をあらわしたかもしれないが、あるいは本性でなく、一時のそれこそ異常な状況が生んだ異常性格だったのかもしれない。しかも、私自身の体験は、万年初年兵という日本軍隊の一番底辺においてであり、視野が片よりすぎているかもしれない。
このような反省が、私をして捕虜の話をすることを阻止してきた。ときどき教室や雑談で、ほんの一部分を吐き出すだけであった。しかし言いたいことを言わないでいるのは、つらいことである。「中公新書」編集部の熱心なおすすめもあって、筆をとる決心をしたのは、このつらさから解放されたいためであった。やっぱりとうとう書いてしまった、という変な感想をはじめにもらしたのもこういうわけからである。
最後に一言お断りを。この本に書いたことは、できるだけ客観性を持たすためなるべく伝聞を避け、私自身の体験を主にした。「私」という言葉がすこし出すぎたようだけれども、そういう次第でご諒解いただければ幸いである。記憶の誤りをおそれることもあって人物は全部イニシャルかまたは仮名にした。そして、これはかなり考えた後でそうしたことだが、上記のような理由もあるし、いろいろな乾燥はできるだけそのとき、そう感じたままに書き記すことにした。当時トイレット・ペーパーの上にかきつづり、こっそりともって帰った日記や感想を、適当に取捨、配列、つぎ合わせたようなものである。その後十五年、私は私なりに書物を読んだりして、現在は、英国に対して考え方を変えたところもある。だが、基本的な変化はないし、学問の上での認識は、かえって真実から遠ざかっていることもあろう。正直に、その当時の気持を言って、読者の批判を待った方が正しい道だと考えたからである。記憶の誤まりもあるかもしれない。ご叱正いただければと切に願っている。

一九六二年一〇月

著者