「“眼” - 王貞治」文春文庫 91年版ベスト・エッセイ集 から

イメージ 1

「“眼” - 王貞治」文春文庫 91年版ベスト・エッセイ集 から

あまり知られていないが、実は僕は二卵性双生児のひとりとしてこの世に生を受けた。僕と一緒に母親の胎内から出てきたのは、廣子という姉である。
生まれた時は、その姉の方が三七五〇グラムで元気がよく、僕は二五〇〇グラムで虚弱体質だった。何しろ僕が歩けるようになったのが三歳になってからたったのだから。昭和十五年といえば、まだ現在のように医学も十分でなく、周囲は姉の方は生きられるだろうが、僕はもしかするとダメかもしれない、と思ったという。
ところが不幸にも、その元気な姉は生後わずか一年三か月でこの世を去っていった。
姉が死ぬと、不思議なことにそれまで弱くて多分ダメだろうと思われていた僕は、奇跡的に健康になっていったのだそうだ。まるで他人事のようにいうのは、僕の記憶には虚弱体質のそれはなく、気がついたときには元気いっぱいの自分しか頭にないから.....。
後年になって、母親からそのことを知らされ、僕は何ともいえない気持ちになった。
「サダハルは、いっしょに生まれた廣子ちゃんから命をもらったんだね」
と母親はよくいったものだ。
姉がこの世を去ってから、僕は母親にとって、とても怖い存在だったという。母親をてこずらせる不良になった、などというのではない。それまで、生きるのもやっとだった僕は母親のおっぱいも思うように吸えなかったのだ。ところが、姉の死後、僕は見違えるように変わった。
母親はいつもこういって僕を恥ずかしがらせたものだ。
「とにかく、私の乳房を吸うときは、まるでカタキでも見るように怖い大きな眼で私をにらみつけるのよ。サダハルの眼は人の倍以上も大きかったでしょ。その大きな眼で、私を見つめるから、かわいいんだけど、あまり長く見つめられる、しまいに怖くなってきちゃうの。それほどホントに大きな眼だったの」
今でも、僕はよく眼が大きいといわれる。その大きな眼で見られると、なにか見すかされるような気がして怖いともいわれる。
自分では、俺ほど気がやさしい男はいないんじゃないか、とさえ思っているのだが、この眼はどうしようもない。
だが、この“眼”こそ、僕の人生にとって何よりも大切な切り札になっていったのである。

眼が人生の切り札になった、などというとまるで俳優の仲代達矢さんがいっているような感じだが、僕のは正真正銘の視る力という意味でのそれである。
この眼があったればこそ、僕は世界のホームラン王になれた、といっても決して過言ではない。
さて、プロ野球も開幕し、また打った打たれたの激しい闘いが始まったが、最近のバッティング理論のなかで、最も重要なことがないがしろにされている気がして仕方がない。
それは選球眼ということだ。
バッティングフォームのこと、タイミングのこと、そしてバットの振りの鋭さのこと等々、年々技術は向上してきている。よく昔のプロ野球選手と今の選手との実力の差が比較されるが、まちがいなく技術は現在の選手の方が一段と優っていると僕は思う。
が、スポッとひとつだけ抜け落ちていることがある。
選球眼である。
厳しい内角攻めができるかどうかが、いま好投手の条件と言われている。それでかどうかわからないが、今のバッターはボールをよけるのがあまりにオーバーで、僕の眼からみると、その姿はまったく笑止の至りである。
僕は現役時代、デッドボールがほとんどなかった。厳しい攻めがなかったからではない。なぜ僕は死球が少なかったのか。それはなにより選球眼がよかったからだとおもっている。
ボールが見えたのだ。
ボールが見えれば、ボールへの恐怖はなくなる。仮に身体から数センチのところにボールがきても、ボールが見えていると「当たることがない」ことがわかる。当たらないと確信できれば、ボールをよけずに見送れる。仮にボールの音が聴こえるほど顔面すれすれにボールが通っても、ピクリともせず、不動のままバッターボックスにいられるのだ。
するとどうなるか。投手に恐怖を与えられるのだ。よく投手からこういわれた。
「王さんの大きな眼でにらまれると、もう魅入られたように、好球を投げてしまう」
と -。
僕は自分の“眼”を切り札にするために、人一倍の努力をした。練習では、ブルペンにいかなかったことはない。投球練習をする投手にことわり、バッターボックスに立たせてもらって、ボールを見る訓練をし続けた。いまの選手で、ブルペンに行くバッターがいないのは本当に不可解である。
次にやったのは、一本足打法を身につけるための訓練だったが、この訓練は眼を鍛えることが中心だったといっていい。
師匠の荒川さんの指導で、真剣の日本刀を振らされたが、すこしたってからこんなこともやった。
新聞紙を幅五センチ、長さ三十センチに切るのである。それを洗濯バサミで天井からつるして、日本刀で切るのだ。一本足でバットを振るように、日本刀を振る。五センチ幅の新聞紙が左右にまわっている。新聞紙の面に向かって日本刀を振っても、まるでバカにされたように、新聞紙の短冊は、ひらりと舞いあがるだけだ。ちょうど短冊が面ではなく辺を見せたとき、つまり真横になったとき、日本刀の刃が真横か、少し上から下へ入ると、ものの見事に切り落とせる。
一、二カ月は五十回振って、切れるのは一、二回であった。が、毎日毎日やり続けたおかげで百発百発中にまでなったのである。
荒川さんの奥様が、毎日毎日、新聞紙で幅五センチ、長さ三十センチの短冊を作ってくれたわけで、今でも僕は荒川さんのお宅の方には足を向けて寝られない。
そうした訓練で、僕はボールを直視しようとさほど意識しなくても、とてもよく全体が見えるようになった。投手が足をあげ始めるのに合わせて、僕もフラミンゴ型をつくり始める。すると、投手の動作、手からボールが離れる瞬間、そして離れたボールがバッターボックスから五メートルに近づくまではっきりととらえられる。ボールの回転、つまりボールのぬい目が見える。
語り草になっている打撃の神様といわれた川上哲治氏の「ボールが止まって見えた」と同じような状態かもしれない。

現役の最盛期には、よく、“王ボール”があるといわれた。僕が自信を持って見おくると仮にそれがストライクでも、審判は「ボール」という、というのである。
審判も人間である。バッターの選球眼のすばらしさに感服すれば、それにひきずられることだってあろう、というものだ。決して僕をひいきにしての判断ではなかった、と思う。
僕は、いまつくづく僕の人生の切り札は、この眼力にあったと思っている。十三年間連続のホームラン王、八百六十八本のホームラン、そして国民栄誉賞と数々の栄光は、この眼によってもたらされたと思う。
そして、現役からしりぞいた今、僕の選球眼は人間の“美点凝視”という方向へとむかっている。
人それぞれ、長所あり短所ありだ。
人の欠点をさがして、あれこれいうのではなく、どんな人にも必ずいいところがある。その美点を、すばらしい選球眼で見つけ出して、それを凝視して人間関係を結んでいこうというのである。
以前に、これまで書いてきたようなことをあるジャーナリストにしゃべった。するとそのジャーナリストが、とてもいいことを教えてくれた。
「いま王さんがいったことと、まったく同じことを書いた評論家がいます」
僕は興味をもって、その著者と作品名を聞いた。そして、さっそくその本を読んだ。まだ二回しか読んでいないので、知的な勉強などほとんどしたことのない僕は、そのいわんとしていることの半分もわからない。が、僕と違って頭のいい本誌の読者は、そんなことおちゃのこさいさい、理解していただけることと思う。そこで、ここで引用させてもらう。
「......拡大された知覚は、知覚と呼ぶよりむしろvisionと呼ぶべきものだと言うのです。見るものと見られるものとの対立を突破して、かような対立を生む源に推参しようとする能力である。このvisionという言葉は面倒な言葉です。生理学的には視力という意味だし、常識的には夢、幻という意味だが、ベルグソンがこの場合言いたいのは、そのどちらの意味でもない。visionという言葉は、神学的には、選ばれた人々には天にいます神が見える、つまり見神というvisionを持つという風に使われていたが、ベルグソンの言う意味は、そういう古風な意味合いに通じているのである。これを日本語にすれば、心眼とか観という言葉が、まずそれに近いと思います」
ほかでもない、この著者は小林秀雄。その著書は『私の人生観』です。
僕の眼が、小林秀雄先生のいう、“見神”だなどとおこがましいことをいうつもりはない。が、僕は母親の与えてくれた眼の資質によって、とてつもない豊かな、大きな人生をえられたことだけは事実なのだ。
僕の人生における切り札は“眼”において他にない。