「本のリズム、暮らしのテンポ - 角田光代」岩波文庫編集部編 読書という体験から

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「本のリズム、暮らしのテンポ - 角田光代岩波文庫編集部編 読書という体験から

私感だが、本には独特のリズムがある。テンポの速いものと遅いものがある。もちろん万人にとっておんなじリズムではないだろう。私たち読み手の暮らす各々のリズムと、本の発するリズムが混じり合って、その人とその本だけが共有できるリズムができあがる。
日常生活にはテンポの速い本のほうが合っている。ごはんが炊きあがるのを待つあいだとか、通勤電車のなか、待ち合わせの相手を待つ喫茶店なんかで、ぱらりと開き、時間がきたら栞をはさんで本を閉じ、また別の場所で、読みさしの箇所に目を落とす。そのほうが頭に入る。
現代の、とくに若い作家の小説はそういうものが多い。日常生活とリズムがぴったりと一致する。私の鞄に日常的に入っているのは、そういう単行本が多い。
ミステリーなどはたいへん高速である。明日早いのだから、もう寝なくちゃなんないのに、どうしょう、やめられない、とじりじりしながらページをめくるのがたのしい。日常のテンポがこちらも高速なときほど、ミステリーはおもしろい。
日常を脱した旅のときは、テンポの遅い方が望ましい。たとえばミステリーなんか旅先で読んでしまったらじつにつまらない思いをする。家事にも約束にも早起きにも邪魔されずあっという間に読み終えて、読み終えたらさみしい思いばかりが残る。その本のテンポに引きずられて、車窓の風景も、普段とはちがう陽射しもにおいも味わえず、帰ってきて思い出すのはミステリーの佳境の場面ばかり。なんてことにもなりかねない。
たとえば、『谷崎潤一郎随筆集』に収録されている「陰翳礼讃」なんて、私にとって至極テンポの遅い本である。プラトンの『饗宴』もしかり。ああいう本は、家事や仕事の合間には読めない。運のいいことに双方私は学生のころに読んだ。幾度もつっかえながら、ページを先にめくるだけではなく元にめくって読み返し、いちいち線など引きながら。学生というのは、忙しそうでいて、じつはたいそう暇なのだ。本のテンポがどれだけ遅くたってかまやしない。
先に挙げた本以外にも、ドストエフスキーだとか、トルストイだとか、私ばかりでなく、私の友人はみな一様に学生のころ読んでいる。今、それらを読めと言われても私にはきっと読めない。それは読書力が落ちたのでも読書欲が減少したのでもなくて、単純に、本のリズムと自分の生活のリズムが合わないからに違いない。
本を読むことの一番のたのしみは、作品世界に入る、それに尽きると私は思う。そこに描かれた陽射しや明かりのなかで、寒さや暑さを感じ、主人公の歩く土埃の道をともに歩き、薬品のにおいのする部屋に居座り、川の流れる音を聞き、恋というものを知らないうちから人を思う奇妙な心持ちを味わい、避けようのない運命に身を横たえる。若いとき幼いときは、自身の生活のテンポが遅い上、日常生活というものに追われていないから、すとんと作品世界に入ってしまうことができる。どっぷりと、完全に、その世界に入る。ごはんですよと母親に呼びかけられたり、電話が鳴り出したりすると、本から顔を上げ、自分のいる場所と今浸っていた場所とのギャップが理解できず少しぼんやりしてしまう。
一度そういう幸福を味わってしまった人は、その後、どんなに忙しくなろうが本を読む羽目になる。テンポの合う本を見つけだし、生活と仕事の合間に細切れでも、小説世界にぐいぐい入りこもうとする。
旅、というのは、私にとって非日常であり、圧倒的に暇だった学生時代と少し似ている。たいていひとりで出かけていくから、時間は膨大にある。いきたいところ、やりたいことは山のようにあるが、けれど結局、一日の大半を待つことで過ごしたりする。バスや列車がくるのを待ち、目的地に着くのを待ち、注文した食事がくるのを待ち、眠くなるのを待つ。どんな旅でも暇である。だから旅先では、学生のような読書をすることにしている。
旅行にいこうと思いたつと、旅行鞄を天袋から出すよりも先に、私は書店に向かう。二週間なら三冊、1カ月なら五冊程度、旅の暇を埋めてくれる本を買い求めるのである。そうして、書店で一番最初に足を向けるのが岩波文庫の棚だ。
単行本は著者名ごとに並んでいるが、文庫本は出版社ごとに並んでいることが多い。岩波文庫の棚は、ほかの文庫の棚より色合いが一段しずんでいる。緑やピンクの帯が巻かれていても、本の背表紙のベージュが、岩波文庫の棚を、渋い、沈んだ色にしている。その色合いのせいで、岩波文庫の棚の前はいつも、ひっそりと静かなかんしがする。その前に立って、読もうと思っていた本や、目に飛びこんできた本を、まず抜き取る。ほかの棚に移るのは、それからだ。
岩波文庫はテンポが遅いものが一番多いと私は思っている。学生のころよく手にとったのもこのベージュの文庫本である。
はやり、すたりがあんまりないのもいい。半年前、書店で見かけたけれど買い損ねたあの本を、今度の旅には持っていこうと思い書店に赴き、見あたらないとがっかりする。
私は無精なので、「これを読みたい、でも今は読む時間がない、また今度」という場合、その書名をメモしたりしない。また今度、それは半年先か一年先かあるいは三年先かわからないが、ふと思い出す。書名を思い出せないことは五割方ある。あれ、何か読みたい本があったよな、なんだっけ、と思いながら棚をざっと眺めていく。新刊の単行本だとこれはもう完璧と言っていいほど再会できない。
それが岩波文庫だとかなりの確率でふたたび出合える。その本は、一年前と等しい呼び声で、棚の前に立つ私を呼ぶのである。最近もそのようなことがあった。
一年半から二年ほど前、書店で『摘録 段腸亭日乗』が平積みになっていた。ああ、読みたい、と思い手にとったのだが、開いてみると、これはどうやらテンポの遅い本である。私のめまぐるしい生活とはリズムが合わない。今度の旅行に持っていこうとその場を離れた。離れてすぐ、その本のことは忘れてしまった。
昨年旅にいくときに、「何か、読みたいものがあったんだよな」と淡く思い出し、書店の岩波文庫文庫の前に立った。すぐに思い出した。平積みにはなっていないが、棚ざしにされた本がきちんと私を呼ぶのである。「あんな、このあいだおれを読みたいと言っていたよな」と。ああ、そうそう、そうでした。よかった、声をかけてくれて。思い出せないところでした。と、本に手を伸ばしかけ、しかし私の目にはその上の段に吸い寄せられた。そこには林芙美子『下駄で歩いた巴里』。この本、じつは読みたくてずっとさがしていたのだった。さがしていることを忘れてしまうくらい、ずっと。
あわてて取りだし、ほかの本といっしょにレジへ持っていった。『断腸亭』は次の旅でいいと思ったのだ。
こういう信頼も、岩波文庫の棚は抱かせてくれる。次の旅が半年後になろうとも、この本はおんなじ位置にあって、ふたたび立てば、また声をかけてくれるだろうという信頼。
『下駄で歩いた巴里』もまたテンポのゆったりした本で、旅によく合った。聞こえるもの音や、すれ違った人の表情を、著者はぜんぶすくいとるように書いている。カメラよりもよほど精巧に、目に映った一瞬の光景を描き出す。旅のさなかにこういう本を読んでいると、こちらも、意識して目を見開くようになる。五感が敏感になり、待つことも苦痛でなくなる。本のリズムが、旅のリズムをもつくってくれるのである。
さて、件の『摘録 断腸亭日乗』だが、じつはまだ買っていない。昨年末にいくはずだった旅が、事情でいけなくなってしまったのである。それでも私はぜんぜんあせらない。岩波文庫文庫の棚の前に立てば、それは絶対にそこにあって、確実に声をかけてきてくれるはずだから、次の旅の機会を待てばいい。

ふつうに過ごしていると気がつかないが、私たちの暮らしのテンポは、日々速まっていく。
先日、大量の手紙を書く必要があって、書いたのだが、手紙という手段の遅さにちょっと愕然とした。
まず便箋と封筒を買いにいかねばならない。それから腰を据えて文章を考え、書き記さなければならない。便箋を折って封筒に入れて、住所を書いて自分の名前を書いて、切手を買いにいってそれをぺろりとなめて貼って、郵便ポストまでいかなければならない。その手紙が相手に届くのにならに数日を要する。
便箋も封筒も切手もいらないメールに慣れてしまうと、このテンポの遅さにはくらくらする。しかし、ほんの数年前まで、私たちはそうやって手紙をしこしこ書いていたのだ。そうするしか、相手に書き言葉を伝える手段はなかったのだ。
コンピュータだけじゃない、掃除機も洗濯機も乾燥機も食洗機も、自動改札も動く歩道もバーコードも、私たちの生きるテンポをどんどん速くする。手間を短縮して一日の時間は長くなるはずなのに、不思議なことにどんどんせわしくなる。
書物は、いついかなるときにもそういうリズムとは無関係なものだと私は思っているが、書店自体も私たちの暮らしに合わせるようにテンポが速まっている。本はどんどん出て、どんどん消える。ほんの十年前の本なのに、絶版だと言われ肩を落としたことがここ数年何度あるだろう。平積みされた新刊書の裏をよく見たら、賞味期限が書いてあるんじゃないかと思うほどだ。
岩波文庫の棚は、流行に忠実にスカートを長くしたり短くしたりするクラスメイトのなかで、ひとり、膝丈の規定スカートを着ている静かな佇まいの、おとなしいお嬢さんみたいだ。どんどんせわしなくなる私たちが、日常をふと逃れ、時間を逆行するくらいのゆるやかさで触れられる本がきちんと並んでいる。いつまでもそうあってほしい。それが本来の本の姿なんだと私は思っている。