2/2「ロミオの「インクと紙」-まえがきに代えて - 松岡和子」ちくま文庫 「もの」で読む入門シェイクスピア から

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2/2「ロミオの「インクと紙」-まえがきに代えて - 松岡和子」ちくま文庫 「もの」で読む入門シェイクスピア から

さてここに、ジェフリー・ブローという碩学が編纂した『シェイクスピアの材源(ソース)となった物語と戯曲』という大部の八巻本がある。これの第一巻に収められているのは初期の喜劇、詩、そして『ロミオとジュリエット』の素になった諸作品だ。
ロミオとジュリエット』を書くに当たり、シェイクスピアがアーサー・ブルック訳による十六世紀イタリアの物語を下敷にしたことはつとに知られている。作者はマテオ・バンデッロ、タイトルは『ロミウスとジュリエットの悲劇の物語』で、もちろんこれもブローで読める。
登場人物は名前も含め双方ほとんど対応しているが、『ロミウスとジュリエット』のジュリエットが十六歳なろうとしているのに対し、シェイクスピアのジュリエットは十四にも満たない。前者では九ヶ月で起こった出来事をシェイクスピアはたった四、五日に圧縮している。というようような大きな改変については『ロミオとジュリエット』のどの解説でも指摘されている。
ブルックの『ロミオとジュリエット』とシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を読み比べると、アカデミックな解説では取り上げていないような小さな
改変と両者の違いが山ほどあることが分かって興味は尽きない。
『ロミウス』には「インクと紙」のことも書いてある。「ロミウスはインクと紙を持ってこさせた」と。ジュリエットとの恋のいきさつ、縄梯子の助けを得ての初夜の歓び、毒薬の購入、死の決意、などをしたためることもすぐあとに続く。それから彼は「手紙をたたんで封をし、父上へと宛名を書き、それを財布にしっかり収め、早馬を雇った」のである。このくだりは、「インクと紙」と「手紙」との間という、シェイクスピアが省いた部分を埋めてくれる。
ブルックには、この手紙についての後日談もある。ロミウスは、毒薬を売った薬屋の名前から薬の値段まで書いており、そのせいで赤貧洗うがごとき気の毒な薬屋は縛り首になってしまうのだ。ロミウスは、毒薬を売ることが法律で禁じられているのを知っていたのに、である。余計なことをして、ひどい!シェイクスピアのロミオも、ジュリエットに比べるとずっと子供で、軽率なところがあるけれど、もとのロミウスはそれに輪をかけたよう。
そんなわけで、ブルックの最後の部分はヴェローナ大公エスカラスによる関係者の裁きになっている。乳母は、二人の密かな結婚を両親に隠していた廉(かど)で追放。ロレンス神父も同罪のようなものだが、それまで町と市民に対し多大な貢献をしてきたので無罪放免となる。だが自ら求めて隠遁者となり、五年後に死んだと語られている。

シェイクスピアの幕切れの大公の台詞に「赦すべき者もあれば、罰すべき者もある」という言葉があり、私はこれを天の裁きへの言及だと思っていたのだが、ブルックを読めば、実は具体的に下される処罰と赦しを一行に要約したことが分かる。
薬といえばもうひとつ、つまりジュリエットが飲む仮死状態をもたらす薬も、ブルックとシェイクスピアではちょっと違う。ちょっとした違いなのだが、舞台で演じるとなると途方もない効果の差が生まれる改変だ。
もとのジュリエットが受け取るのは小瓶に入った粉薬で、ロレンス神父は、それを渡しながら、縁まで水を入れて溶かしてから飲めと指示する。シェイクスピアはこれを水薬に変えた。
ジュリエットがこの薬を飲む場(第四幕第三場)は、この芝居の名場面のひとつだ。まだ幼さの残る彼女がたった独りで恐怖にさいなまれ、不安のとりこになった果てにロミオの名を呼び、恐らく心に浮かんだだろうその姿に勇気づけられて一気に飲む。
「ロミオ、ロミオ、ロミオ!さあ、ひと息に、あなたのために」
ここで瓶に水を入れて薬を溶かしたりしていては、緊張感はゆるむわ間抜けだわで、効果もなにもあったものではない。シェイクスピアもきっとそう考えたに違いない。そこで、水薬。
こんな小さな改変でも、その効果の大きさを思えば、いかにシェイクスピアが「劇場人」であり「現場の人」であるかが分かろうというものだ。ブルックを丁寧に読めば読むほど、この種の劇化の例がぞろぞろ出てきて興奮する。
ところで、私がシェイクスピア作品に登場する「もの」に興味を惹かれ、それらについて書いてみようと思ったのも、一九九四年に上演された『ロミオとジュリエット』がきっかけだった。いや、その稽古が、である。
ある日、東京グローブ座の地下一階にあるAスタジオに行ってみると、第一幕第二場冒頭の稽古の真っ最中だった。ジュリエットの父キャピュレット(山崎清介)がパリス伯爵(吉田鋼太郎)に娘のことを話し、召使いピーター(戸谷昌弘)に舞踏会の招待者リストを渡して「ここに名前を書いた方々のところへ行き/我が家へのお越しをお待ち申し上げているとお伝えしろ」と言う場面である。
レタラックはこの『ロミオとジュリエット』の演出で「無対象」という手法を採った。具体的な実際の小道具は使わず、平たく言えばすべてジェスチャーでやるということだ。そのとき、レタラックと共に来日して音楽と殺陣を担当したカール・ジェイムズの指示に従って、誰がどんな道具をどこで使うかを動きながら確認していた。「お客のリストはどこにあるの?キャピュレットが初めから持っているのかな?それともどこかに置いてあるの?」とカールの質問が稽古場通訳を通して山崎さんに伝えられる。山崎さんは、背広の内ポケットに入れてあることにしてやってみたり、デスクの引き出しにいれてあることにしてやってみたりする。このデスクも「無対象」。
次の場も、その次の場も、そんなふうに稽古は進んだ。そのたびに役者それぞれがその場でもつ「もの」を自分から申告する。
ロミオとジュリエット』にはいろいろ「もの」が出てくるんだな、シェイクスピアのほかの芝居はどうなんだろう ー そう思ったのが『シェイクスピア「もの」語り』のそもそもの始まりだった。
それにしてもシェイクスピアさん、あなたが「インクと紙を取ってこい」にすぐ続けてひと言「父上に手紙を書く」とでも書いておいてくれれば、四百年後の日本の女の子が何年も悩むことはなかったのに.....。