「女と料理 - 藤本義一」中公文庫 男の遠吠え から

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「女と料理 - 藤本義一」中公文庫 男の遠吠え から

食いものの恨みはこわいなどという。たしかに、人間の三大欲望のひとつで、人生の中で一番長いかかわり合いをもつのが、この食欲というやつであろう。
ところが、料理下手(べた)の女房というのをもらったら、夫たるものゲンメツだろう。下手は下手でも、一生懸命に努力する女ならいい。努力せずに等閑(なおざり)にする女なら厄介である。
「そのあたりにあるものを食べておけばいいじゃないの」
という考えの持ち主である。
工夫もしなければ、料理そのものにも深い興味を示さない。そんな女にかぎって、夫が不味いというと、
「そりゃ、あなたなんか一流の料理屋さんで食べてるんだもの......」
と、たちまち居なおるのである。
テレビで有名人夫婦が登場する料理番組がある。「ごちそうさま」とかいうのもその一種であった。藤本義一夫妻も出演したことがある。
あの番組を見ていると、妻たる女の手許(てもと)がクローズアップされる。胡瓜を切ったり、トマトを切ったり、フレンチ・ドレッシングをつくったりしている。その手許を見ているだけで料理の上手下手はたちまち露見する。
敏捷にして清潔な印象の女はいい。が、時たま不潔な指の動かし方をする女が出てくる。ぎゅッと材料を握ったり、庖丁の持ち方がぎこちなかったり、これは今日一日の付焼刃だなとわかったりする。
その女がいくら美人であっても、もうひとつ女の魅力には欠ける。一流の化粧品、ドレスを身に纏っても、本質は二流以下だと思うのである。一緒に出ている亭主まで阿呆に見えてくる。
ウナギを捕まえたような指先で胡瓜をおさえつけて、スッコン、スッコンと切っていたりする。あれはどうも不潔であり、ワイセツにさえ思う。どうして、軽くおさえて、サッサッサといけないものかと思うのである。洋食らしきものをつくる女にこの手合いが多い。
反対に、季節のもの、シュンのものを用いる女房には、ほとんどこの無器用さはない。
たとえば、地竹、ゼンマイ、葉トウガラシ、山ゴボウという山菜を用いる女は、女らしさと清潔さがあって、指の動きがすがすがしいし、工夫、配慮も行き届いているものである。
ある日、トンカツをラードで揚げて、主人、子供のお弁当に入れますという女房がいた。
彼女は工夫がたりない。さめたらラード揚げのトンカツは食えたものではない。さめて食いやすいのは植物油半分、ラード半分だろう。
そして、料理をしながら、その料理を説明するわけだが、さりげない言葉に、その女のウイット、ユーモアが感じられるし、料理に対する姿勢、愛情がある。
「ほう、サンドイッチにはさむハムは厚く切るんですねえ」
と司会者がいうと、
「ええ、でも、新幹線の中のサンドイッチのハムって、シーツみたいでしょ」
と、ある人はいったものだ。シーツという表現がよかった。厚いサンドイッチには子供に対する愛情が滲んでいたし、本来、サンドイッチに入れるハムなどは、ガバッと厚味がなくてはいけないものなのだと再認識もした。
そして、独特の工夫がまた女の魅力ともいえる。
十年ほど前に、取材で奈良県の吉野口あたりを歩いていた。吉野口駅の弁当は「鮎ずし」であったが、新しく「衣巻時雨寿司(きぬまきしぐれずし)」というのがあったので食べてみた。
巻ずしなのだが、普通はノリで巻くのをコンブで巻いてあって、コンブの切断面が樹の年輪のように美しかった。その中に、時雨ハマグリが入っていたものだ。なんでもないようで、これはなかなかな工夫というものである。後で聞いてみると、「鮎ずし」を食うのは、ほとんどが中年なので若者向きにと一週間考えたそうである。
この弁当屋さんに、ぼくはノーベル賞でもあげたい気がしたものだ。やはり、食って楽しく旨いというのが一番である。
料理学校で盛りつけたような料理だけが料理だと思っている娘がいるけれども、あんなものを毎日出されたらウンザリしてしまうだろう。キンキラキンの厚化粧となってしまうのである。習ったとおりつくるというのは、その間になんの工夫もないということになる。
あるいはまた、自分の舌に合った食べ物は、皆の舌にも合うと思っている女も困るのである。
「ね、おいしいでしょう。ね、おいしいでしょう」
を連発されて、一体どう答えたらいいのか。
飾りたてず、押しつけず、さりげない料理の美味は、化粧、服装にも通じるのではないだろうか。