(再掲)「谷中銀座大好き - 森まゆみ」ちくま文庫 谷中スケッチブック から

(再掲)「谷中銀座大好き - 森まゆみちくま文庫 谷中スケッチブック から
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そもそも今の谷中銀座の道は狭い路地だったが、戦争中に爆撃による類焼を避けるため、強制疎開になって道が広がった。
「だから土地の権利関係が複雑でね、公道部分なんてあまりないんですよ。今回の模様変えでも許可をとったり、けっこう面倒でした」
先ほどの鈴木さんの話である。おかげで、空襲で日暮里側まで焼けた火は、この道で食い止められ、谷中側は古い家が今も残ることになった。
終戦までは石段はなく、崖で、その上にも家が建っていた。この家は、火事になってとりはらわれたという。駅前の道は七面坂を迂回して、今の谷中銀座の拡張された通りに続いていた。戦時中は、毎日のように、三崎坂やこの道を、日暮里駅から出征する兵士を送るパレードが絶え なかった。そして戦死して骨になって帰ってくると、またそれを迎えるパレードがあった。
昭和二十年、戦いがすんで男たちが復員し、こんどは食うための戦いがはじまったとき、この広くなった谷中銀座の通りは日暮里駅へも近いので、崖を壊して石段を作り、駅に通じる道路につなげられた。道の両側にはナベ、カマ、衣類などの市が立ち、繁華な通りへと変っていった。
「露店がいつのまにか店構えになった」と鈴木さんは言う。それ以後、この辺は変わらないのだろうか。
「そうねえ、変ったことと言えば、石段がきれいになったことくらいかしらね」と白い三角巾をかむった後藤飴店のおばさん。大正のころと同じ製法で手づくりの飴をつくりつづけている店だ。
だが、これからはどうだろうか。コンビニエンスストアやスーパーが近くにも増え、主婦の生活も変りつつある。それでも私は、谷中銀座はだいじょうぶだろうという気がする。各商店が固定客を持っているし、個性がある。ここでなければ買えないものもある。
「それでも若い人はスーパーに行っちゃうんでしょうかねえ。どれがおいしいかというのがわかっていただければいいんですが。肉でも、私は脂ののったところがやっぱりおいしいと思うんですけど、健康とかスタイルとか気になさる方は赤身がいいっていう。とにかく調理法が変りましたよね。牛肉は、ローストビーフにするから塊でくれとか、刺身にするにはどこがいいかとか。私どもも勉強しませんとね」
高度成長期のような売行きは望めないが、やはりいい物を仕入れて安く売りたい、それで店のもんが食べていけさえすればいい、と鈴木さんは言う。
同じものを買おうと思えば、スーパーで黙々とカゴに品物を放り入れ、レジで一ぺんに払った方が時間的には半分か三分の一ですむ。仕事を持つ主婦が増えた今日、それは便利な方法である。
でも、夕ぐれの谷中銀座をそぞろ歩き、あちこちの店に声をかけ、かけてもらいながら一つ一つの品を買い求めていく楽しさは何ものにも替え難い。玉木屋の「べったら漬入荷」とか福島貝店の「かき入荷」の貼紙が季節をしらせてくれる。紺の着物に赤いタスキでザル持って「卵二コおくれ」とやっている鳶の頭のおばちゃんの姿、鈴木肉屋さんでコロッケを買ったとき入れてくれる白い薄い紙袋の隅っこのねじり方、そんなことを見るのが好きだ。
仕事でいやなことがあっても悔しい目にあっても、「買物にいこう」と子供を連れて町に繰り出し、顔見知りのだれかと話せばだんだん気分が晴れてくる。谷中銀座も階段に近づくにつれて、食料品のほかに、衣料品や靴などの店が目立つ。私たちはここを「谷中ファッション街」と呼んでいる。
今年は何色が流行るのだろう。子供の手で汚れた服を脱いで、あんなチェリーピンクを着てみたい。エメラルドグリーンのTシャツもかっこいいとそんなことを考えながらのぞいているのである。デパートまで行く暇もないから、生活のちょっとした楽しみだ。
でも谷中では、流行の先端みたいな服よりも、ウエストがゴムのジャージのズボン、モンペ、オバン風レースのカーディガン、前打ち合わせの和風の上っぱりなんかの方がよく売れている。子供を育てる時には、あの店屋のおばさんの着ているような上っぱりやモンペって、案外、着易くて便利なのだ。
また石段下まで来てしまった。
もう日が暮れる。焼鳥一本食べようかな。十条から来る屋台のヤキトリ屋が、石段下に今日も来ている。風呂帰りのおじさん、買物ついでのおばさん、焼鳥を食べながらおしゃべりに夢中だ。