「荒川を渡って路地の町へ - 四ツ木、堀切(葛飾区) - 川本三郎」ちくま文庫 私の東京町歩き から

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「荒川を渡って路地の町へ - 四ツ木、堀切(葛飾区) - 川本三郎ちくま文庫 私の東京町歩き から

京成押上線の荒川駅は好きな駅のひとつだ。
この駅は名前のとおり荒川に面している。ほとんど荒川の堤防の上にあるといってもいいくらいだ。駅を降りて改札口を出ると目の前はもう荒川で、パノラマのような川の風景が広がる。川を見たくなるとここに来る。銀座から都営浅草線に乗って約四十分ほど。意外に近い。
駅を降りて堤防に立って川を見る。広大な河川敷とゆったりとした荒川の流れを見ていると、この川が人工の川であることを忘れてしまう。荒川は実は以前荒川放水路と呼ばれていたように、自然の川ではなく人の手によって作られた川である。
隅田川は梅雨や台風の時期になると出水し、浅草、深川、本所など川沿いの町は水害に悩まされた。たとえば明治末年に書かれた永井荷風の代表作のひとつ『すみだ川』に隅田川の出水の様子が描かれている。
明治四十三年の出水はとくに被害が大きく、その年に放水路を作って隅田川の水害を調節することが決定した。その結果出来たのが荒川放水路、いま荒川と呼ばれている人工の川である。北区の岩淵大門から東京湾まで約二十キロ。大正二年から工事を始め大正十三年秋に完成したということから十年がかりの大工事である。
それから六十年以上たつが、いまの荒川を見ているととても人工の川には見えない。自然の川である隅田川が人工的な運河のように見えるのに人工の荒川のほうが自然の川に見える。人工の自然化である。人の手で植樹され育てられた緑の山が自然に見えるのと似ている。その意味では人工と自然はそれほど対立していないのかもしれない。
一月十六日、成人の日の振替休日に荒川を見に行った。荒川駅に着いたのは午前十時半ごろ。暖かい日で河川敷にはもう草野球を楽しんでいる子どもたちや凧揚げをしている親子連れでにぎわっていた。
荒川駅は墨田区。荒川を越えた向こうは葛飾区になる。ちょうどこの朝、NHKテレビで山田洋次監督の初期の作品『下町の太陽』(一九六三)を放映していたが、あのなかで化粧品工場に勤める倍賞千恵子が住んでいる家というのは、その様子から見てこの荒川駅近くではないだろうか。
このあたり昭和三十年ころには皮革工場がたくさんあったというが、いまは工場は少なく住宅が建て込んでいる。路地では親子がキャッチボールをしている。久しぶりのいい天気でどこの家も軒先に洗濯物をいっぱい干してある。おかみさん連中が路地のあちこちで立ち話をしている。
鐘ヶ淵通りと曳舟川通りのぶつかる交差点のところに渋いのれんのかかった一杯飲み屋があった。この時間にまさかと思ってガラス戸を開けるとなんともうカウンターに四、五人客がいて酒を飲んでいる。毎朝十時には開店するのだという。
煮込みの匂いにひかれてカウンターに坐った。ビールを頼んだ。墨田区ではビールといえばたいてい地元のアサヒビールである。朝からビールを飲む。気分は下町のご隠居だ。この店は親娘でやっている。老人と、娘といってもおばさん(失礼)。居酒屋であり大衆食堂である。隣の客は鯛のアラ汁でどんぶり飯を食べている。品書きを見るとホルモンめんとか桜カルビー丼とか珍しいものが並んでいる。電気ブランまむし酒ハイボールというのもある。どじょう煮と大根のはりはり漬を肴にもらった。
こういう店だから客は全員中年。これから浅草の馬券売場に行く者、荒川に釣りに行く者。顔見知りどうしで話がはずんでいる。といってフリの客の私をうとましく見るということはない。狭い店のなかは煮込みの鍋から上がってくる暖かい湯気に包まれている。居心地がいい。しかしこんな時間から飲んでは酔いがまわってしまうのでビール一本で切り上げた。
町を歩いてまた荒川の堤防に出た。さっきよりはさらに人が出ている。赤ん坊を連れた若い主婦が日なたぼっこをしている。川には釣り舟も出ている。荒川のゆったりとした流れが暖かい日ざしに浴びてきらきら光っている。春先の陽気だ。
岡本かの子に『渾沌未分』という小説がある。川で泳ぐのが大好きな活発な若い女性を主人公にしている。その舞台となっているのが荒川で彼女は最後水の精のように荒川から東京湾のほうに向かって泳いでいく。「川」の好きな岡本かの子らしい作品だ。昭和十一年に発表されているが、そのころは荒川で泳ぐのはふつうのことだったのだろう。
荒川にかかる四ツ木橋を渡った。歩いて渡ると五分以上かかる。真中あたりで川を見下ろすと足がすくむ。橋の上から釣り糸をたらしている釣り人も多い。荒川と並んで綾瀬川が流れているが隅田川と同じようにこちらのほうが人工の運河に見える。
橋を渡ると葛飾区の四ツ木。昭和三十年ころには小さな玩具工場がたくさんあった“玩具の町”というがいまはその面影はない。
二年ほど前、銀座の並木座高峰秀子の子役時代の映画『綴方教室』(山本嘉次郎監督)を見た。昭和十三年の作品である。
下町の貧しいブリキ職人の一家の物語で、高峰秀子扮する小学生の女の子の目で語られていく。この一家が住んでいる町が四ツ木向島のほうから夜逃げ同然でやってきたという設定だった。当時の四ツ木で撮影されたらしい。高峰秀子が荒川土手を歩くシーンもある。湿地帯らしく雨が降るとすぐぬかる。全体に暗く貧しい話だが、夏休みに子どもたちが川で泳ぐシーンもある。あれは綾瀬川か荒川か。
現在の四ツ木は『綴方教室』の時代のような面影はない。東京のどこにでもある町のひとつである。京成線の四ツ木駅も現在新しく改装中である。東京の町はどこも次々に変っていく。そしてみんな似たような町になっていく。
四ツ木から北に向かって歩いた。住宅が建て込んだ町が切れ目なく続いている。町名は四ツ木から堀切に変る。堀切菖蒲園のあるところである。面白いのは、東部伊勢崎線堀切駅は荒川の向こう足立区にあることだ(そこは町名は堀切ではなく千住曙町である)。荒川をはさんで堀切町と堀切駅がばらばらになっている。これはいうまでもなく人工的に荒川が作られて町が分断されたためである。
荒川沿いにはこういう名残りがあちこちにある。葛飾区の四ツ木には木根川小学校があり、その向かいの墨田区の東墨田にも木下(きね)川小学校がある。荒川ができるまではこの二つの町(当時は村)はどちらも南葛飾郡のキネガワ村だったからである。足立区の柳原町も昔は綾瀬の一部だったという。