4/4「泰西人の見たる葛飾北斎 - 永井荷風」岩波文庫 江戸芸術論 から

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4/4「泰西人の見たる葛飾北斎 - 永井荷風岩波文庫 江戸芸術論 から



北斎漫画』及この種類の絵本はいずれも薄き代赭藍[だいしやあい]または薄墨を補助としたる単彩の板画なり。されば北斎が彩色板画の手腕を見んと欲すれば富嶽三十六景、諸国滝巡り、名橋奇覧、詩歌写真鏡[しいかしやしんきよう]の如き錦絵を採らざるべからず。これらの諸作はいづれも文政六年以後に板行せられしものにして、北斎山水画家としてまた色彩家としてその技倆の最頂点を示したる傑作品たるのみに非らず、その一は司馬江漢が西洋遠近法の応用、その二には仏国印象派勃興との関係につきて最も注意すべき興味ある制作なりとす。
ここに暫く葛飾北斎が画家としての閲歴を見るに、彼は宝暦年間に生れその齢歌麿より少[わか]き事僅に七年なり。然れどもその画風筆力の著しき進境を示したるは歌麿の歿後、文化中葉[ちゆうよう]の事にして、年既に四十歳を越えてより後の事なり。彼が司馬江漢の油絵並に銅板画によりて和蘭画[オランダが]の法式を窺ひ知りしは寛政八年頃、年三十余歳の時にして、当時の浮絵及絵本に多く名所の風景を描きたり。その後文化の初め数年に渉りては専馬琴その他の著作家稗史[はいし]小説類の挿絵を描き、これによつて錦絵摺物等の板下絵においてはかつて試みざりし人物山水等を描くの便宜を得、大にその技を練磨したり。加ふるに文化末年名古屋に赴くの途次親しく諸国の風景を目睹[もくと]し、ここに多年の修養自ら完備し来りて、文政六年年[とし]六十余に至り初めて富嶽三十六景図の新機軸を出せり。これを以て見るも北斎は全く大器晩成の人にして、年七十に及んで初めて描く事知りたりと称せしその述懐は甚だ意味深長なりといふべし。
富嶽三十六景中今試みに江戸日本橋の一図を採りてこの種類の板画全般を想像せしめんとす。日本橋の図は中央に擬宝珠[ぎほうしゆ]をそびやかしたる橋の欄干と、通行する群集の頭部のみを描きて図の下部に限り、荷船の浮べる運河を挟んで左右に立並ぶ倉庫の列を西洋画の遠近法に基きて次第に遠く小さく、その相迫りて危く両岸の一点に相触れんとする辺に八見橋と外濠の石垣を見せ、茂りし樹木の間より江戸城の天主台を望ませたり。富士山は天主の背後に棚曳く霞の上(図の左端)に高く小さく浮び出さしむ。この図を一見して感受する所のものは遠近法に基く倉庫及び運河の幾何学的布局より来る快感なり。しかしてこの快感は北斎新案の色彩によりて更に一層の刺戟[しげき]を添ふ。
北斎新案の色彩とは何ぞ。彼は日本橋橋上の人物倉庫船舶等の輪廓を描くに日本画の特色たる墨色の線を廃し、全画面の色調を乱さざらんがため緑と藍との二色の線を以てしたり。しかしてその描線もまた彼が常用する支那画の皴法[しゆんぽう]に依らず、能ふ限り柔かく細き線を用ひたれば、或部分は色彩の濃淡中に混和して分別しがたきものあり。これ西洋画または南画没骨の法に倣[なら]ひて、日本画より線を除却せんと企てたるものには非ざるか。北斎はここにおいて支那画の典型に遠ざかると同時に浮世絵在来の形式を超越し、しかしてまた自己の芸術の基礎を覆へさざる範囲において甚だ適度に西洋画の新感化を応用したるものといふべし。さればこれらの山水板画は北斎の制作中その最も傑出したるものとなすべきなり。
北斎の山水板画はその素描と布局の甚写生的なるに反し、その彩色は絵画的快感を専らとしたり。再び日本橋の図について見るに、全色彩の根調となるべき緑と黄とに対照して倉庫の下部に淡紅色を施し屋根瓦に濃き藍を点じたるが如き、あるひはまた浅草本願寺の屹立[きつりつ]せる屋根を描きたる図中その瓦の色と同様なる藍と緑を以て屋根瓦を修繕する小さき人物を描きたるが如き、あるひはまた深川万年橋の図において橋上の人物は橋下の船及び両岸の樹木と同様の緑色を以て描き出されたるが如き、これ皆天然の色彩を離れて専ら絵画的快感を主としたるものならずや。これら新案の設色法は思ふに肉筆の制作と異なりてなるべく手数を簡略ならしめんとする彩色板刻の技術上偶然の結果に出でたるや知るべからず。然れども今これを絵画的効果の上より論ずれば決して軽々に看過すべきものに非ざるなり。仏蘭西印象派の画人ら初めて北斎がこれらの板画を一見するや、その簡略明快なる色調の諧和を賞するのみならず、あたかも当時彼らが研究しつつありし外光主義の理論て対照して大に得る処ありとなせしものなり。色彩を以て絵画の趣旨となす仏蘭西印象派の理論は宇宙の物象は吾人日常の眼を以て見るが如く物象その物には何ら特殊の定まりたる色彩を有するものに非ず、空気及光線の作用により時々刻々全く異りたる色を呈するものなりとなす。この理論に照して彼ら印象派の画家は北斎の山水板画を以てその最も成功せる例証となしたり。富嶽三十六景中快晴の富士と電光の富士とがその一は藍色[らんしよく]の光線に染められ、その一は全く異りたる赤色となれるが如き、彼らはこれを以て凡そ物の陰影は黒く暗く見ゆるものにあらずかへつて照されし物体と同様の色彩のやや柔げられたるものならざるべからずとなしたるその新理論に適合するものとなしたり。これと共に北斎板画の単純明快なる色調は専ら根本的なる太陽の七色にのみ重きを置かんとする彼らの主張と全く一致するものとなしたり。
此[かく]の如く浮世絵画工中北斎の最[もつとも]泰西人に尊重せられし所以は後期印象派の勃興に裨益[ひえき]する所多かりしがためなり。クロード・モネエが四季の時節及朝夕昼夜[ちよせきちゆうや]の時間を異にする光線の下に始終同一の風景及物体を描きて倦[う]まざりしはこれ北斎の富士百景及富嶽三十六景より暗示を得たるものなりといはる。ドガ及ツールーヅ・ロートレックが当時自然主義の文学の感化を受けその画題を史乗[しじよう]の人物神仙に求めず、女工軽業師洗濯女等専ら下賤なる巴里市井の生活に求めんと力[つと]めつつあるの時、北斎漫画は彼らに対して更に一段の気勢を添へしめたり。殊にドガの踊子軽業師、ホイスラアの港湾溝渠[こうきよ]の風景の如き凡て活躍動揺の姿勢を描かんとする近世洋画の新傾向は、北斎によりてその画題を暗示せられたること僅少ならず。
北斎はまことに近世東西美術の連鎖なり。当初和蘭山水画の感化によりて成立し得たる北斎の芸術は偶然西欧の天地に輸送せされ、ここに新興の印象派を刺戟したり。しかしてこの新しき仏蘭西の美術の漸[ようや]く転じて日本現代の画界を襲ふの時、北斎の本国においては最早や一人の北斎を顧るものなし。北斎のの制作品は今大半故国の地を去りて欧米鑑賞家の手に移されたり。江戸時代において最も廉価なりし平民美術は殆ど外人占有の宝物となり終れり。わが官僚武断主義の政府しばしば庶民に愛国尚武の急務を説けり。尚武は可なり。彼らのいはゆる愛国なるものの意義に至つては余輩甚これを知るに苦しむ。