「谷崎を読む - 養老孟司」文春文庫 涼しい脳味噌 から

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「谷崎を読む - 養老孟司」文春文庫 涼しい脳味噌 から

ベトベトした、こんな気持の悪い小説はない。大学生の頃は、谷崎潤一郎の小説をそう感じていた。井上靖ね方が硬質で、はるかに「美しい」。なにしろ「カチン。秋の音」である。学生の頃『射程』に読み耽って、電車の駅を二つ、乗り越したことがある。
このところ谷崎を読み返すと、「気持が悪い」という印象は、ほとんどない。ある年齢になると、自分の若い頃の感性をすっかり失う。それが自分でよくわかる。
『盲目物語』『春琴抄』は、谷崎の傑作だと言われる。この二つが、語りの形式をとっていることは、ご存じのとおりである。ということはつまり、はじめから耳で聞かれることを意識しているのである。ただし、それが著者の積極的な意図だったかどうか、それはわからない。
『盲目物語』の中には、当時の俗謡が出てくる。その瞬間に、読み続けにくくなる。リズムが外れるのである。語り形式で進行するから、そこには一定のリズムが生じるのだが、歌の引用になった瞬間に、そのリズムがとぎれてしまう。しかし、そのリズムは、著者の脳裏では、切れ目なく引き続いていたに違いない。
こういうものが書けるということは、著者がいかに聴覚的だったかを示す。ひょっとすると谷崎は、視覚的な描写を意図的に避けたか、それを嫌ったかのようにも思われる。この二つの「物語」が、盲人を主人公にしたものであることも、それを強く示唆している。盲目である以上、よほどの必要がないかぎり、この主人公たちは、視覚的な描写を作者に強要しないからである。谷崎はそれを好んだのではないか。
小説の地の文を吟味すると、三島由紀夫のような厳密な視角性は、ここでもまったく欠けることがわかる。むしろ驚くべきことに、すべてがいわば「抽象的」なのである。それは『蓼喰う虫』のような「現代物」でも同じである。具体的な描写といえば、文楽の人形を見るあたりだが、これも本来「見る」ものだからそうした描写があって当然であろう。それにしても、こんな描写はどうか。
「明治初年の飛鳥山へでも行ったならば、花見時には定めしこんな光景が見られたであろう。要(注・人名)は蒔絵の組重などという物を時代おくれの贅沢品だと思っていたのに、ここへ来て見て始めてそれが盛んに実際に用いられているのを知った。なるほど漆の器の感じは、玉子焼きや握り飯の色どりといかにも美しく調和している。中に詰まっている御馳走がさもおいしそうである。日本料理はたべる物ではなく見る物だと言ったのは、二つの膳つきの形式張った宴会を罵った言葉であろうが、この花やかな、紅白さまざまな弁当の眺めは、ただ綺麗であるばかりでなく、なんでもない沢庵や米の色までがへんにうまそうで、たしかに人の食欲をそそる」(蓼喰う虫)
漆の器の感じが、玉子焼きやら米の色なりと合って、うまそうだという。しかし、その色合いは、たかだか「紅白さまざま」で、いっこうに具体的でない。これを読むと、谷崎は視覚的な描写が嫌いなだけでなく、およそ描写する気がないように読める。蒔絵と弁当の中身の色合いに感心して、食欲が沸いたというだけで、あとはその月並みな「説明」に過ぎず、とても具体的な描写ではない。だから「抽象的」だというのである。「明治初年の飛鳥山」も同じであろう。風景の説明が自分の「目」に発していないから、要するに「明治初年の飛鳥山」という引用になってしまう。情景をいちいち書くのが、面倒くさいのではないか。
さらに疑えば、谷崎には、視覚的な印象を文字化する動機が欠けている。そう言ってもいいように思われる。実際、『蓼喰う虫』を読んでいても、目になにかが浮かんでくるというわけではない。谷崎が視覚的に強力な描写をすることがあるとすれば、それは女の肉体についてだけではないか。それを書こうとする動機なら、十分に存在すると思われるからである。しかし『鍵』を読んでも、夫人のほの白い肉体だけが、ただただ漠然と浮かんでくるばかり。
谷崎がいたく感心している、女性の視覚的な描写がある。それは、水上勉の『越前竹人形』である。その中に「玉枝は黄金色の光の糸を背にして、竹の精のように佇んでいた」という一節がある。これに対して、谷崎は言う。
「私もここで思わず息を飲んだ。『竹の精』という想像はいかにも美しい。この一言でその場の光景が金色を放って目に浮ぶ。島原や芦原の遊廓で娼妓を勤め、一時はだるま屋の売女にまでなり下った女のことだから、美人といってもおおよそ知れているような気がしていたが、なるほどそういう光線を浴びて竹の林に囲まれてすくっと立っていたとしたら、さぞその美貌が不思議な円光の中にかがやいていたことであろう。ここへ持って来るまでの描写が幾分たどたどしかっただけに、一層ここが引き立つのである」。(谷崎潤一郎随筆集、岩波文庫)
女の視覚的描写であれば、他人の書いたものでも、このとおり。谷崎の目は、要するに女の抽象的な姿に集中してしまう。これは、作家としては、幸福なことであろう。三島由紀夫を見れば、それがわかる。三島は、目の作家として、谷崎の対極にある。三島の小説といえば、視覚的な具体的描写で、ほとんど全編が埋まっているのである。
日本の美とは、視覚的な美である。文学がそれを突き詰めようとするとき、悲劇が生れる。視覚の美を文章にするなら、対象は女だけでよい。それ以上は、「ことばに余る」。芥川龍之介川端康成も、どうやら目の美にこだわるところがあった。これは、小説家としては、「あぶない」資質ではないか。目の美をことばに表現する。それが結局はうまく行かないから、世に画家という存在がある。その画家が、しばしばむやみに長生きをするというのも、偶然ではあるまい。
そう思えば、谷崎は健康な作家である。長生きをして当然か。