2/2「遺書状を書く必要がなかった人 - 新藤兼人」新潮文庫 ボケ老人の孤独な散歩 から

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2/2「遺書状を書く必要がなかった人 - 新藤兼人新潮文庫 ボケ老人の孤独な散歩 から

溝口健二小津安二郎もそれぞれいい死に方であったと思う。
今年、一月九日、宇野重吉が死んだ。七十三歳。壮絶な死であった。
二度のがんの手術をし、死期を悟ってから宇野重吉一座を組んで芝居の旅に出た。人は死ぬと知ったとき、立ちすくんで何もできないか、人間としての最後の行動に出るか、である。立ちすくむのもひとつの生き方であり、最後の行動に出るのもそれなりの生き方であって、立ちすくむのをいちがいに臆病とはいえない。人はそれぞれである。
だが、宇野重吉の場合は行動に出た。旅に出て芝居をして、芝居をほんとうによろこんでくれる人たちに会いたい、というのが宇野重吉の念願であった。本人がそういっているからわたしはそれを信じる。宇野重吉が遺言状を書いたかどうか知らないが、おそらくそんなものは書かなかっただろう。最後の旅へ出たことが遺言状であった。
去年九月九日、深谷市の文化会館へ、重ちゃんに会いに行った。カメラを持って行ったのである。ドキュメンタリー『さくら隊散る』の取材であった。
久しぶりに重ちゃんに会って、がくぜんとした。目が落ちくぼみ、頬骨がとびだし、腕は骨に皮がついているだけだった。わたしは、『愛妻物語』以来のながいつきあいだから、精気あふれんばかりの彼を見てきた。
取材の目的は、戦時中の移動演劇隊のことであった。『さくら隊散る』は、丸山定夫を隊長とする移動演劇桜隊が、八月六日、広島で原爆に遇って殉難する内容だから、証言者として彼に戦時中の移動演劇隊の事情を訊くためである。
楽屋の長椅子に体を横たえている彼を見たとき、取材を諦めねばならぬかと思ったが、彼が、かまわない、話しておきたい、カメラを回してくれという。彼は死を覚悟しているから、またの日に、とはいわないのだ。それがこちらにもわかった。
声に張りがあった。いまにも折れそうに細くなった頸の喉ぼとけがごくりごくりと忙しく動いた。一時間ばかりで終って雑談した。これから沖縄へ行くんだと。病院のベッドにいたってトラックの助手台に寝てたって同じだ、助手台の窓から流れる風景は生きているから、生きかえった気もちになる、という。わたしはうなずきなから、これが宇野重吉の遺言状だなと思った。役者というものが羨ましく思えた、いのちが燃えつきるまで演じられたらさぞ仕合せだろうと思った。
宇野重吉は、あくまでもリアリズム演劇に固執した。『夜明け前』『火山灰地』を出発点とする彼は、戦後も劇団民芸を拠りどころとして日本の風土に根ざしたリアリズム演劇に徹した。新しい芝居がとうとうと流れてきても頑固に垣根の中に閉じこもった。ドラマの原点はリアリズムだという姿勢を崩さず、古典に分け入り、チェーホフに傾倒した。『三年寝太郎』をもって旅に出たのま、彼の演劇的意見の展開であった。
ある人は、彼の行動を人騒がせをしないでしずかに寝ていたら、といったが、宇野重吉は体で意見を言いたかったのである。
正岡子規は、明治三十五年九月十九日、死去した。三十五歳の若さであった。五年まえからカリエスで腰痛はげしく、起きていられなくて病床に臥した。すでに宿痾の結核結核もすすみ、回復の見込みのない状態だった。
日本新聞に勤めていた子規は、病床からコラムを書き『病牀六尺』と題した。六尺とは敷布団の長さである。それを自分の世界に見たてた。たった六尺の病床だが、一つの世界と見れば広くはばたける空間であった。はばたくたびに一つの俳句が、一つの短歌が生まれた。
芭蕉があって、つづく芭蕉がなく、旦那芸と堕した俳句の衰弱を嘆いて、写実的俳論を展開し、近代俳句の祖といわれる子規は、病床六尺にあって死を覚悟したからこそ、己れに徹した発想が生れたのである。
腰痛の苦痛に号泣する子規は、自殺の誘惑を払いのけながら、ひたすら最期の瞬間まで生きんとした。死を考えることは生きることを考えることであるともいっている。夏目漱石河東碧梧桐高浜虚子伊藤左千夫長塚節が私淑した。これらの人は子規の生き方に多くのものを学んだ。
子規に遺言はない。死の前日十八日、三句をしたためた。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
をととひの糸瓜の水も取らざりき
痰一斗糸瓜の水も間にあはず

子規の病床から、障子の硝子越しに糸瓜の棚が見えた。子規はぶらさがった糸瓜が大きくなるのを見ていた。妻帯しなかった子規は母の看病を受け、母に看取られと死んだ。
近松門左衛門の『鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』は、事実の事件を脚色した姦通劇である。近松は興行性を考えて実際に起きた事件を急いで書き下ろし、多くの傑作を書いた。
武士の妻おさいは、夫が江戸へ参勤中、娘の婿にと願った権三とふとしたことから不義の汚名をきることになって、権三と共に家を出る。帰ってきた夫は武士の掟に従って女敵討ち(めがたきう)に出る。そして歳月を重ね、享保二年(一七一七年)、伏見の川のほとりの夕まぐれ、討つものと討たれるものが出会う。槍の遣手の権三だが槍がない。「ええ、竹がな一本ここにありせば」と権三の痛烈な言葉がほとばしる。
槍があれば、というのは、言いわけを聞いてくれる人がいるならば、という心。その槍がない。人は誰もみな、一人の槍を求めて死ぬのであろうか。