「歩兵の思想 - 寺山修司」小学館文庫 たかがカレーというなカレー から

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「歩兵の思想 - 寺山修司小学館文庫 たかがカレーというなカレー から

サラリーマンは
気楽な稼業と来たもんだあ
とサラリーマンではない植木等が唄う。
すると、満員電車のサラリーマンたちは身をゆさぶって幸福そうに笑う。
だが一体「気楽」とは何なのか?それはサラリーマンにとって喜ぶべきことなのかどうか?小市民的な時代における「大市民」の理想について考えてみよう。

ライスカレーとラーメンとの時代的考察をしてみようと思いはじめた。
この二つの食物は、ともに学生やサラリーマンにもっとも身近なものであって、これに餃子を加えると大衆食「三種の神器」になる。
だが、ライスカレーとラーメンとはよく似たような愛され方をしているように見えながら、実は微妙にちがったファンを持っているのである。
一口に断定すれば、ライスカレー人間というのは現状維持型の保守派が多くて、ラーメン人間というのは欲求不満型の革新派が多い。それは(インスタント食品をのぞくと)ライスカレーが家庭の味であるのにくらべて、ラーメンが街の味だからかもしれない。
私の持っていたラジオ番組「キャスター」(QR)の中で、ノーマン・メイラーばりに「一分間に一万語」というセクションを設けて、聴取者に一分間ずつ勝手なことを演説させたり、プロテストさせたりしたことがあった。
その一分間一万語の出演者の中の、あるサラリーマンがライスカレーの話をしたのが妙に私の心に残った。
彼は、自分の妻のライスカレーがいかにうまいか、という話を一分間したのであったが、それはいわば「家庭の幸福」のシンボルとして、ライスカレー憲章のようなものが存在する、という話であった。
「どんなに会社で面白くないことがあっても、路地を曲ってアパートの方からプーンと、うちのかあちゃんライスカレーの匂いが漂ってくるともう何もかも忘れちゃってね。
ああ、俺にはホームがあるなってことをシミジミ感じましたね」
- こうしたライスカレー人間が、いわばホワイトカラーの典型であって、日本の歩兵なのである。
彼ら、ライスカレー歩兵にとって、幸福の最大公約数は「よく眠ること」」「親子そろって無事であること」「テレビを観ること」などである。
だからこそ、植木等はカンシャク玉を破裂させたような声で日本版プロテストソングを唄うのだ。

ホラも吹かなきゃ ホコリも立たず
いびきもかかなきゃ ねごともいわず
ボソボソ暮らしても 世の中ァ同じ
デッカイホラ吹いて、プワーッといこう
ホラ吹いて ホラ吹いて ホラ吹いて

という訳だ。
だが、同じ「一分間に一万語」で、日本人ホラ吹き大コンクールと銘打って、ホラの吹きくらべをさせたときにも何一つ卓抜なものがでてこなかった。ホラが出ないでウソが出る。つまり、現実のヴァリエーションは出るが、想像力の創造などはでてこないのである。
「ああ、つまらにいね」と私はいった。
ライスカレー人間には何も期待できない。彼ら幸福な種族には、もはや現実との緊張関係など生まれっこないのだ」
「でも、それがいいんじゃないのですか」
とサラリーマン氏はいった。
「ホラ吹いてプワーッといこうとしたところで、現実はそんなに甘くはないですからね。地道に、平凡にいくのが一番いいんですよ」
ところで、ライスカレー人間のこの堅実さにくらべると、ラーメン人間の方はいく分可能性が持てる。
ラーメン人間は、何時も少し貧しく、そしていらいらしている。あの地獄のカマユデのように湯気の立ちのぼるラーメン屋の台所には、何かしら「戦争」のイメージさえ思い出させるものがある、というサラリーマンもいる。「結局のところ、ラーメン人間の欲求不満ってのは、そのラーメンの味の中に何かを求めてるんじゃなくって、ライスカレーよりも安いってところから来るんですよ。
安いラーメンしか食えないって不満と、ずくに腹が空くって不満。
つまりは収入が少ないって不満であり、階級的な不満ってことになるんですよ」そう説明してくれたのも、またべつのサラリーマン氏である。
だが.....と私は思うのだ。
「ラーメンとライスカレーのあいだの、ほんの二、三十円の値段の差が、幸福の限界線だというのは、あまりにも涙ぐましい話じゃないかね?」
ライスカレーはうまいですからね。インド人もびっくり!なんていうじゃないですか!」
「キミは?」私は訊ねた。
ヒレ肉のステーキや、北京の鴨や、燕の巣のスープを味わってみたいとは思わないかね?」
するとサラリーマン氏いわく、
「私はあんまりゲテモノ趣味はないんです」
「ゲテモノ?ゲテモノじゃない、私は高級料理の話をしているのだ」
すると彼は軽蔑的にいった。
「そんなもの食ったって何になるんです?
燕の巣なんか食ってみたって、お腹をこわさなければ幸運ですよ。
第一、ビクビクしながら食ったってちっともうまくないですからね」
「それじゃ、食生活の冒険なんて無理だね。味覚文化もちっとも発達しない」
「ああ、発達しなくたっていいんですよ。私はかあちゃんライスカレーさえあれば充分満足なんだから」

ジャン・ポール・ラクロウの「出世しない秘訣」という書物には「いかにして出世から逃れるか」ということが書かれてある。それによると、
「一たん出世したら、金はなくともヒマと友情にめぐまれつつ幸福を小川の鮒のように釣り上げていた楽しかりし日を偲んでも、もはや追っかない。こうしたご仁は、お金を儲けたり命令を発したりする機械になりはてて、ハートのところには小切手帳を持ち、うちつづく社用パーティ-で肝臓はふくれあがり、受話器のために耳は変形してしまう。
彼らはいう - 時は金なりと。だがおかしなことに、金を持てば持つほど彼らの時は少なくなっている。友人と一ぱいひっかけに行くとか、若い娘さんとボート遊びをするとか、古本屋をあさり廻るとか - そんな真似をしていられるかい、一分間に十万フラン儲かる(または損する)とわかっているんだもの - ふふん。.....といった按配」
そして出世を避けて、平凡に生きるためにはどうするかについての細目にわたる指針が示されている。
その通りにしさえすれば「四十歳頃には、あなたはかのずばらしい存在、あの文明の華、すなわち『落伍者』となりうるだろう」という訳である。
こうした爆笑を誘うような書物こそ、ライスカレー人間にとっては福音の書であるといえる。つまり「友人をつくるな」「ヘマをやれ」「目立つな」というアドバイスこそ、彼らの無気力さのカクレミノになるならである。
しかし、その巻末の「いかにして彼らは出世しなかったか」という有名でない人々の伝記とわが身とをひきくらべて、その類似点の多さにニヤニヤしながら、ホッと安堵の溜息を洩らし、同時に何となくさみしい気がすることだろう。

サラリーマンは歩兵である。
つまり、満員電車と会社とマイホームの往復を一駒ずつ一進一歩してゆく。しかし、将棋においては歩兵は一度ひっくりかえるとたちまち金将になることもできるのである。
これは出世の喩(たとえ)ではなくて、もっと大きな.....たとえば「価値の問題」としてである。
ライスカレーとラーメンの小競合いから、一気に生きかた全体への問題にまで立ちもどるときに、二つの食物の差が大きなサラリーマンの理想にまで発展する可能性を持ちはじめるのだ。
サラリーマンの「幸福論」は、ライスカレーの中などに見出されるべきではない。「幸福」について、もっともっと流動的なイメージを持たぬ限り、歩兵は一生歩兵のままで終ることになるだろう。
「幸福とは幸福をさがすことである。 ジュール・ルナアル」