(巻二十二)冬晴や醤油をはじく目玉焼(彌栄浩樹)

イメージ 1

5月19日日曜日

四連休の内の一日くらいは何処にも出掛けず籠ることに致した。
我が家という立方体の外へは洗濯物を干しにベランダに出ただけの一日でありました。

団地とは函と内箱桜散る(潤)

来週はthe地方都市にいるに逢い行くに従者として同行するが、先ず日曜日の朝八時半のタクシー予約で躓いた。各社ともに日曜日の朝は台数を減らしているので予約を受け付けられないと云うのであります。無ければ仕方がないからバスに乗りましょう。雨でないことを祈っております。
で夕食会をやるつもりのレストランの方は予約が取れました。

朝日俳壇は『かくて又しばらくつづく冷奴(菅野仁)』、『耕人の折り返すとき山仰ぐ(久野茂樹)』を書き留めました。

一日中家に居ましたので今日の写真は一昨日“ときわ”で撮った松竹のカレンダーの女優さんであります。

山笑ひ思い出せない女優の名(成田淑美)

あたしゃこの手の顔立ちが大好きなんでございますよ!でも健康的に過ぎる容貌で“オカズ”にはならないな。
映画のポスターと“オカズ”のことで思い出すのは稲垣浩監督作品の 『無法松の一生』の一場面でございます。吉岡夫人への想いを断ち切り独り暮らす“松”のあばら屋の壁に女優の描かれている映画のポスターが揺れていましたなあ~。

ポーズを取る女優さんたちはオカズにされることは承知の上なんでしょうね。

更衣晩年にもある好奇心(宮本秀峰)

オカズは“秘すれば花”程度がよろしかろうと遠藤周作氏や開高健氏が述べられております。

1/2「性にタブーは必要だ - 遠藤周作集英社文庫 愛情セミナー から
?
ごく素朴な疑問を若い読者の皆さんに提出してみたいと思う。その疑問とは「性の解放」についてである。
その前に私の立場をはっきり、させておこう。私は今日まで自分の作品に性をテーマにしたことがない。テーマにしたことがないのはごく簡単な理由で、私のとりくんでいるテーマは別のところにあるからだ。
自分の作品に性をテーマにしたものはないが私は一時、かなり熱心にサドの勉強をしたことがある。まだサド・ブームが日本にない頃で私は当時、留学中だったが、ある考えからサドの研究にとりくんだ。その考えとは私の小説『留学』(新潮文庫)を読んでくださった方には多少わかって頂けるだろう。だから私は後になって渋沢龍彦氏のサド裁判の折、一度だけだったが特別弁護人として法廷にたった。第一に私はサドの作品がいわゆる検察側のいう劣情刺激的なものとも社会を乱すものとも思えなかったからである。第二に私は国家なり政府なりが性道徳に干渉することを望まなかったからである。現代では性は個人の問題になっていてお上が干渉すべきものではないと考えているから である。性が犯罪と直接つながらぬ限り法律が口を出すべきではないというのが私の気持だった。第一、裁判官だって検事だって男である以上、淫猥なことを考えない筈は絶対にないのに、それが裁判所で急に道徳漢づらをして重々しい声を出すのは滑稽であり、偽善的である。
また性は個人の問題であるから、それが犯罪に結びつかぬ以上、社会もジャーナリズムも干渉すべきではあるまい。いつも思うのだが、一方では性の解放を口にしているくせに、他方では芸能人などの異性関係を批判めいた形で記事にする一部のジャーナリズムほど偽善的なものはない。
以上が私の大ざっぱな立場である。
このことを読者の皆さんに含んで頂いた上で平生から私にある疑問を出しておく。
性の心理の根底にあるのは「所有欲」もしくは「所有されたい欲」である。別の言葉でいうならばそれを征服欲、もしくは征服されたい欲と言ってもよい。
恋人同士がやがては性のつながりを持つというのは根本には精神的恋愛には限界があると感ずる場合だ。恋愛をやった者は皆、知っているだろうが、恋愛は「くるたのしい」ものである。「くるたのしい」とは苦しく、かつ、楽しいを略した私の新造語だが、恋愛の楽しさのなかには苦しさが必要であることは既に情熱についての解説でのべた。
情熱というのは安定すれば消えるもので、不安や苦悩があれば燃えることは、言いかえるならば、恋愛にはいつも「もっと」という感情が必ずつきまとうということになる。それは相手をまだ全部、所有していないという感じであり、「もっと彼女がほしい」「もっと、もっと彼を全面的にわたしのものにしたい」と恋人たちはいつも考えるということなのだ。
この「もっと.......もっと......」という所有のねがいが普通、恋人たちを精神的恋愛から肉体のつながりに導くと思っても、そう間違いではないであろう。
もっと彼女がほしい。彼女の外側だけではなく、その内側もほしい。彼女が身にまとっている衣服を剥ぎたい。なぜなら衣服というのは彼女が自分にだけではなく社会の誰にでもみせる覆いだからだ。彼女が自分にだけにみせるものを見たい。男女の肉体的欲望にはこの「もっと、もっと」の願いが含まれているのだ。性の心理の根底にあるものは「もっと所有したい」という所有欲がひそんでいるのである。
このことは逆に、性の心理は所有欲がみたされれば終ってしまうことを意味している。「もっと、もっと」という願いがすべてかなえられれば性的心理はそれ自身で完結するのである。このことはもちろん男女によって違いがある。多くの場合、男性は女性の衣服を剥ぎ、その裸の体を所有し終った時、あとは言いようのない空虚感を感じるのが普通である。空虚感というのは正しくないかもしれぬ。正確に言えば、それまで彼を駆りたてていた「もっと、もっと」がもうすべて終ってしまったという感じである。
女性の場合は逆に男に所有された時、空虚感より充足感を感ずるほうが多い。女性は男性とちがって性の結合を情熱の完結におかず、愛のはじまりにおく心理をもっているからである。しかしそうした精神的な愛情が伴わない場合は女性もまた男性と同じ心理になってしまうのである。
だから少なくとも、こういうことは言える。性の心理、もしくは性欲はこの「もっと、もっと」がある限り昂揚するのであり、すべてがまだ充たされぬゆえに、「もっと、もっと」の心理が起り、性欲はこの「もっと、もっと」を刺激にして高まるのである。すべてを与えればそれはみち足り、飽き、しぼんでしまう。
男に飽きられた女性には彼女が彼にすべてを与えすぎたためだと気がつjかぬ人が多い。彼女は惜しみなく、すべてを彼にjくれてやり(それを愛情だと錯覚したのである)そのために彼に「もっと、もっと」の心理を起させなくしてしまったのである。恋愛は何よりもそれが破れぬうにせねばならぬ。にもかかわらず、女性は「与えすぎる」ことで、自分たちの恋愛を台なしにしまう時がある。はっきり言えば、その女性は、人間の心理、男の「もっと、もっと」の心理を知らなすぎたのである。
以上の性の心理構造をふまえた上で、私は次の疑問を読者のみなさんに提出しよう。恋愛中の肉体交渉は恋愛を飽きさせないか、という疑問である。
?
2/2「性にタブーは必要だ - 遠藤周作集英社文庫 愛情セミナー から
?
私はフリー・セックスというような流行的風俗を言っているのではない。普通の恋人たちの婚前交渉について言っているのだ。
婚前交渉が道徳的に正しいか、悪いかなどは私の知ったことではない。正しいと思った奴は勝手にやればいいし、正しくないと思った奴はやめるがいい。そんなことは人の自由である。
ただしだ。婚前交渉をする恋人たちは、性の心理が「もっと、もっと」によって高まるのだと言うことを、どこまで念頭においているかが私にとって疑問なのである。
「好きな人なら、結婚前でも与えるのが、わたしたちの恋愛にとって純粋だと思うの」
とあるお嬢さんが私に言ったことがある。なるほど意気や、壮。彼女の言うことに反対するつもりは私にはない。
だが、もし、この「純粋でありたい」ために彼女が彼にすべてを与えたとする。一度や二度ならよろしい。五度、六度と与えたとする。それは彼に「もっと、もっと」の所有欲を失わせてしまう結果になるかもしれぬ。彼はそのお嬢さんのすべてを知ってしまう。今までひそかに空想だけしていた彼女の裸体も秘密もみんな、みんな知ってしまう。「もっと、もっと」はもうなくなってしまった。
少しずつ、夕暮の影が部屋に入りこむように彼の恋愛感情に飽きという影がさしこむのはこの時だ。
次第に彼はつめたくなる。お嬢さんにはその理由がよくわからない。「わたしはみんな、あげたのに......」と彼女は思う。「みんなあげた」から、こういう結果になったのだとは気づかない。「純粋でありたい」ためにやった行為が、逆に恋愛を破滅にみちびくのである。この場合、婚前交渉は二人の恋愛にとって、やっぱり純粋で正しかったと言えるだろうか。
第二に性欲というのはやはり、あるタブー(禁止)があって昂進することころがある。してはならぬことをした時、性の心理が充実するのは経験者なら誰でも知っている。これは自分の女房と寝るより、他人の妻と寝るほうが興奮するということだ。姦通という罪の意識がかえって情熱をたかめるからである。
多くの夫婦がおたがいにもう昔ほど性の結びつきに関心をもたぬのは、タブーがそこになくなったからである。
夫婦が寝たって世間は当然と思う。当り前のことだ。道徳的にやましいことはない。タブーがはずされれば、性の心理はその限りで力がなくなってしまう。昂揚しない。うそだと思ったら結婚十年ぐらいの夫婦に聞いてまわるといい。もっともそんなことを聞くと、君は頭の一つ二つはぶん撲られるかもしれん。キンゼーなんて、よくやったもんだ。
こうしてタブーと性の心理の関係を考えると、ポルノ禁止解除とか、性表現の自由という考えは、ひょっとするとタブーをはずすことによって性心理を充実させなくなる結果になりはしないか。
「馬鹿言っちゃ、いけない」
とある人は言うかもしれん。
「そんなにタブーでしか昂進しないような性欲の持主は男じゃない」
しかし、その場合、彼はまことに非民主的な考え方を口にしたことになる。人間の身体強弱は各人別々であって、強い奴だけが性を満足できて、他の者はひっこんでいろというのは独裁者的、ファシスト的考え方ではないか。世界万民、みな性心理が充実できるようにするのが民主主義というものだ。
私は何も軽い冗談を言っているのではない。現にスウェーデンでも他の北欧諸国でもポルノ解禁をした国では、普通の人はそういうものに見むきもしなくなったし、関心もなくなったと言うではないか。つまり性は彼等の興味の対象ではなくなってきたという。
私はこれが本当か、どうか知らないが、本当としてもなるほどと思う。タブーがすべてねくなり、女の裸体など、至るところで見られるようになると、我々が今日まで持ってきた「空想のたのしみ」「もっと、もっと」の楽しみはなくなってしまうのである。
それだけではない、結婚十年後の色あせた夫婦のように、若人は異性の体にみずみずしい好奇心も新鮮な関心もなくなってしまう。私たちタブーの時代を生きた世代は、
「おッ、これが女か」
という興奮を初めて女の裸をみた時、感じたのだが、タブーが解除された時代の若者は、
「フン、めずらしくもねえ」
ヤキイモやバナナを見るような気持で恋人の裸をみるようになるかもしれぬ。女としてこんなに悲しい悲しいことはない。なぜなら、自分の愛している男が、自分の裸をみて、
「一足す一は二だな」
などと呟き、生あくびを噛み殺すようになったら、どんな屈辱感を女はうけるであろう。

民主主義の国では国家が個人の性に干渉すべきではない。これは大賛成である。しかし個人の性心理から考えれば、私はタブーは残したほうがいいと思うのだ。それは社会道徳などという野暮ったい見地から言うのではなく、性心理とタブーの関係から言っているのである。
もちろん、この私の疑問、提言に、
「反対、反動」
と叫ばれる読者も多いであろう。その方の御返事を待っている。ただし私の意見を誤解しないよう、よく熟読してから反対意見をのべて頂きたい。私も応戦するつもりである。
ひとこと、つけ加えておくことがある。私は今までの「性心理」という言葉を精神的愛情をぬきにして書いたのである。精神的愛情があればタブーがはずされても、男と女は別の心でだきあい性行為をすることができる。結婚後十年の夫婦がなお夫婦生活を持続しているのはそのためであろう。