1/2「大衆の変質 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

イメージ 1

1/2「大衆の変質 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

選択に迷ふ大衆

いつか遠い未来の眼が振返ったとき、二十世紀の最後の二十年は、ひょっとすると、人類の精神史のなかでも特筆すべき時代として見えるかもしれない。それは、日本を含むいくつかの脱産業化社会において、無数の大衆が、ひとりひとり自分が自分自身を十分には知ってゐない、といふ事実に気づく可能性を持ち始めた時代だからである。
少なくとも今日の日本の社会ほど、ひとびとが、多様な商品をまへにして何を買ふかに思ひ悩み、どこへ遊びに出かけるかに心をくだき、自由な時間をいかに使ふかを決めかねてゐる社会は少ないだろう。町を歩いてきまって耳にするのは、「何か面白いことはないか」といふ青年の会話であり、書店や新聞売り場で目にするのは、服装、旅行、趣味、テレビ番組など、あらゆる楽しみにかかはるおびただしい案内書の山である。大型の工業製品だけについて考えても、現在、某企業が一社で生産するモーター・サイクルの種類はデザインや色彩の違ひを勘定に入れれば、つねに数百に達してゐるといはれる。まして、食品や衣料の品種と商標は数へきれず、行楽地や文化施設の種類も限りなくあるから、何を着て、何を持って、どこへ行くかといふ選択肢の組み合せは、ほとんど天文学的な数字にのぼるであらう。しかも、現代社会では、さうした選択を助けるはずの情報そのものの数が多く、消費者は案内書やカタログの山に埋もれて、まづその情報の選択に苦しまねばならない。
一方で、選択すべき対象の数が増えるとともに、他方では、選択しながら生きるべき自由な時間が延びて、現代人の人生はまさに迷ひの機会の連続になったといへる。青春の猶予期と老後の余生がともに長くなって、労働による拘束時間が減ったばかりでなく、労働の時間そのもののなかにすら、自由な選択の余地がしのびこみ始めてゐる。商品の企画開発や、デザイン、宣伝、セールスといった非工場的な労働の場合、真に大きな成果をめざさうとすれば、決められた手続きをただ反復することは有効ではない。さういふ職場に生きるひとりの勤労者にとって、ある一日の午後、つぎの数時間をいかに過すかについて規則による拘束がなく、完全に彼の創意にゆだねられる機会は確実に増えつつある、といへよう。けだし当然のことだが、消費者が何を買ふかについて迷ひの機会を増やせば、その分だけ生産者もまた、何をどのやうに作るかについて真剣に迷はねばならないのである。
興味深いことに現代の日本人は早くもこの急増する選択の機会に疲れを覚え、一面においては、無意識のうちに一種の「自由からの逃走」を試みてゐる、とさへ見ることもできる。
ひとつには、昨今、家庭における伝統的な年中行事の復活が盛んになり、冠婚葬祭の儀式がしだいに形式的な煩雑さを増してゐるといふのも、そのことの徴候であるかもしれない。ひとびとは、自由すぎる自分の行動にたいして外的な拘束を求め、あり余る時間のなかで、いつ、何を、いかにするかについての決断の労を省かうとしてゐるかのやうに見える。さらに示唆深いのは、最近の購買活動のかたちにいはば二極分解の傾向が見られ、一方でゆとりある買ひものが好まれるとともに、他方では極端に安易簡便なサーヴィスが求められてゐる、といふ現象であろう。小売店の店頭に自動販売機が置かれ、それが開店時間中にも大いに稼働してゐるといふ話を聞くし、あへて商品の種類を限定した、いはゆるコンヴィニエンス・ストアが成功ををさめてゐる、といふ事実も報告されている。いまや消費者たちは、日常品の購入についてはできるだけ選択の煩を避け、そのかたはら、節約された時間と精力を特定の趣味的な買ひものに注いでゐる、と見るべきなのかもしれない。
いふまでもなく、近代の歴史を振返れば、人間は一貫して、行動の多くの分野にわたって自由意志の支配を強め、あらゆる問題について意識的な選択の機会を増やしてきた。職業や配偶者の決定はもちろん、家族の構成や子供の出産にいたるまで、かつては伝統的な習俗に支配されてゐたことが、近代では、すべて個人の自由な選択にゆだねられることになった。しかし、その場合、前提とされてゐたのは、個人の欲望が明快に存在するといふ事実であって、自由な選択とは、その欲望が意志となって働くのに何の妨げもない、いふことを意味してゐた。いひかへれば、近代の自由の前提は、人間が自分自身を十分にしってゐるといふことであり、より具体的にいへば、自分が何を欲してゐるかを完全に知ってゐる、といふことであった。
これにたいして、現代の消費者は、おびただしい商品の山をまへにして、たえず自分の欲望そのものの内容を問ひただされ、しばしば、じつは自分がその答へを十分には知らない、といふ事実を自覚させられてゐる。「何か面白いことはないか」と自問する人間は、すでに半ばは、自分がその「何か」を知らないことを告白してゐるのであり、自分が自分にとって不可解な存在であることに気づきはじめてゐる、と見ることができるだろう。