2/2「大衆の変質 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

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2/2「大衆の変質 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

孤立するエリートの終り

この自覚が、たとひ漠然とではあれ社会全体に浸透し、多数の大衆がいまや自分の行動について迷ひ始めたとすれば、これは近代の大衆化の歴史にとって重大な変化だ、といはなければならない。
なぜなら、ほぼ半世紀まへ、『大衆の反逆』を痛烈に非難したオルテガ・イ・ガセットによれば、大衆とは共通の欲望にもとづく「標準的な生活」を求めるもであり、「すでにある自己」に安んじて、その保持にのみ腐心するものにほかならなかったからである。すなはち、彼の見た大衆とは、第一に、多数の他人と同一の欲望を共有する人間であり、第二には、多数者と一致してゐるがゆゑに、さういふ自己の欲望に傲慢な確信を持ちうる人間であった。いひかへれば、彼らは、自分の欲望が普遍的で正当な要求であることを確信してをり、だからこそ、「すでにある自己」に安住して、それに「より高い課題」を課す必要を感じない人間であった。しかし、現代の大衆は、すでにその「標準的な生活」への欲望をほぼ満たされてをり、満たされた分だけ、他人と共通の欲望を強く感じる機会を失ってゐる。それどころか、彼らはその消費生活を通じて、日々に他人のまへで個性的であることを要求され、刻々に「すでにある自己」とは違ふものになることを要求されているのである。
一方、この現代の大衆は、オルテガのいふ「選ばれた少数者」とも違って、けっして自分の欲望を自分から否定し、より高い理想をめざして生きる克己的な人間でもない。彼らは、その点でもいはば謙虚な人間だともいへるのであって、何が高い課題であり、何が普遍的な理想であるかについても、自分がたしかに知ってゐるとは感じてゐない。
じつをいへば、オルテガの「選ばれた少数者」は、彼の時代の大衆を裏返した存在にすぎないのであり、大衆が自己の不変の欲望を信じてゐたのにたいして、彼らはそれを否定する点で変ることなき自己を信じたのであった。だが、今日の新しい大衆は、自分の欲望が日々に変化するものであることを学んでをり、あへて否定するまでもなく、たえず思ひがけなく、「すでにある自己」を裏切るものであることを感じてゐる。彼らにとって、自己とは、ただ頑迷に保持するべき存在でもなく、克己的に否定するべき存在でもなく、むしろ、みづからが日々に発見して行くべき柔軟な存在になった、といへるだらう。もちろん、彼らもときには克己的に行動することもあらうが、それは、彼らが傲慢に自己の理念を確信してゐるからではなく、反対に、主張すべき自己の欲望に確信が持てないからにちがひないのである。
このやうな変化は、おそらくはまず、これまでの大衆とエリートの対立の構図を変へ、ひいては、伝統的な個人主義の思想にも根本的な変更をせまることになるのは、明らかであらう。なぜなら、従来、大衆とは本質的に均質的な存在であり、また、自己保存の本能に生きる存在であるのにたいして、エリートとは本質的に個別的であり、また、自己変格の意志と不安に生きるものだ、といふのがわれわれの常識であった。そして、かつての個人主義はかうしたエリートの生活原理にほかならず、その中心的な意味は、あくまでも均質性への反抗と生成発展の変化にある、といふのが伝統的な解釈だったからである。
だが、いまや、大衆そのものが均質性を失ひ、日々に変化する自己に不安を感じ始めてゐる以上、大衆性に反抗する個人主義も、古いエリートの孤立の精神に求めることはできない。いひかへれば、いはゆる大衆性の「危険」が、かつては盆俗と退嬰にあったのにたいして、いまではより多く、珍奇と非常識と自己分裂にうつりりつつあるのであるから、それにたいする救済のかたちもまた変らざるをえないのは、自明であらう。
現代の個人主義は、むしろ、個人を際限ない自己分裂から救ひ、変化のなかに一定の同一性を回復し、安定した生活の常識と、行動の落着いたスタイルを作る努力のなかになりたつことになろう。また、それは、さうした常識やスタイルのかたちで、個人相互のあひだに共通の生活の地平を作りだし、個性をそのうへに位置づけることによって明確化する、といふ新しい方向をめざすことであろう。考えてみれば、もともと、個人とは変化のなかの自己同一性のことであり、個性とは他人との共通性のなかの特異性のことであるが、この微妙な両義性の均衡を守るために、われわれは時代によって、とくにその一方の極を擁護しなければならないのである。