「文庫本が好き - 丸谷才一」ハヤカワ文庫 私の選んだ文庫ベスト3 から

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「文庫本が好き - 丸谷才一」ハヤカワ文庫 私の選んだ文庫ベスト3 から

わたしたち日本人は文庫本のあの版型が大好きだ。新書本の版型だって嫌ひぢやないが、文庫本のサイズのほうがもつと気に入つてゐる。
その證拠と言つては何だが、ハヤカワ・ポケット・ミステリー(ほぼ新書本のサイズ)は、あれだけ成功したシリーズなのに、それとは別にハヤカワ文庫が出てゐて、こちらもよく売れてゐる。早川書房のこの二重構造はおもしろい。どちらも中身は似たやうなものなのだから。探偵小説やSFを文庫本でも読みたいと読者は願ひ、文庫本でも出したいと出版社は欲するわけだ。つまり国民的な熱望が底にひそんでゐる。
どうしてこの熱望が生じるかといふと、日本人の小さいもの好きにゆき着く。これはわたしの持論なのだが、ここでもちよつと書いてみよう。
縮み志向なんてからかわれるが、日本人は一体に小ぶりなものに目がない。
たとへば盆栽。あれは庭木あるいは森林のミニチュアである。箱庭もこれに似てゐる。それからお雛様の雛道具。小さなお膳の上に、小さな御飯茶碗だのお碗だのその他いろいろの器が並んでゐる。
詩だつて小ぶりだ。つまり短い。和歌は三十一音で発句は十七音。漢詩のときだと律詩その他の長いやつぢやなく、わづか四句しかない絶句を愛する。しかも朗詠などのときは、そのうちの二句を抜いて口ずさむ。
本だつてこの傾向があつて、江戸後期には小本といふものが流行した。小ぶりの木版本で、漢詩や和歌や俳諧の集を出すのである。袖珍本と称して、ちよいと出かけるとき懐中にしのばせるのに向いてゐる。そして、かういふ下地があつたからこそ、近代にはいつてから、文庫本が国民全体に受けたのだと思ふ。「範をかのレクラム文庫にとり」といふ岩波文庫刊行の辞は有名だが、しかしたとへば森鴎外がレクラム文庫に親しむやうになつた一因として、この小本の伝統は無視できないのではないか。
わたしは中学生のころ岩波文庫に熱中して、一時は毎月の新刊をほとんど全部買ふくらゐだつたし、そのいちかなりのものに目を通した。新刊以外のものも読んだ上だから、これは大変な濫読である。それ以来ずいぶんたくさんの文庫本を手に取つたり、ポケットに収めて電車に乗つたりしたわけだ。日本人の文庫本好きはわたしの血のなかを脈々と流れてゐるやうである。いまでも、月に何冊も、いや、それ以上の文庫本をつい読んでしまふ。いつぞや、

桜桃の茎をしをりに文庫本

といふ句が浮んだのは、多年のつかあひの記念か。

『私の選んだ文庫ベスト3』といふ毎日新聞書評欄の企画は、おもしろいと思つていたし、ときどき案を出したりもした。そんなわけで、本にまとめるに当り、名前を貸してくれと言はれて快諾した。かういふ楽しい本の表紙に自分の名が出るのは嬉しいことである。