「死ぬ場所の問題 - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

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「死ぬ場所の問題 - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

「死は日本ではさけられている」というのは、死を見る機会が減ったということも原因としてあげられるようだ。かつての日本は大家族主義だった。一族郎党が一つの屋根の下に住んでいるというのも珍しくなかった。こういう生活では、必ず誰か死ぬ人がでてくる。そうなると、いやでも死を見ることになる。しかし、現在のようにほとんどの人が病院で死ぬようになり、しかも核家族だと、家族が死ぬのを見たことがないという人さえでてくる。
私たちは、死に場所を病院に追いやって、それで問題は解決したと思っているかもしれないが、実はそうではない。日本の病院は死にたいする準備を何もしていないといってもいい。日本では、病院で患者が死んでも、遺骸はせいぜい霊安室に一時収められるだけである。葬儀も告別も自宅に遺体が帰ってから行われる。しかさ、欧米ではちがう。ほとんどの病院に死を迎える人々にたいするチームがあって、医師はもちろん、ケースワーカー、看護婦、病院付の牧師などが、そういう患者を精神的に支えることが行なわれ、なくなってからも、病院で葬儀が行なえるような施設が宗教別につくられている。
このような、日本と欧米のちがいは、欧米の病院は、地域社会に密着しているので、地域でやるべきことが、病院の中に入り込んできているためだとみられている。かつてのように、死期の近い患者が家庭にいても、開業医が往信するといったことや、病院がもっと死んでいく人たちへの配慮が必要であろう。
一見“文明の利器”のように見えるCCU(心臓集中管理装置)やICU(集中治療室)は実際には人間を無視したような形になっているのも事実である。亡くなった武見太郎さんが「ICUやCCUはまったく自由がなく、刑務所のようなものだ」といったことがあるが、自分が入ってみないとわからないものであろう。
日本でも、いまや、死ぬ人の半数以上が病院で死を迎えるようになった。このこと自体を少し考えてみる必要があるのではないだろうか。いまの日本の病院は治療を行なう場所で、看護を中心に展開されていない。少なくとも、死を迎える場所ではないようだ。ターミナル・ケアーを中心としたホスピスのようなものがもっと多くつくられる必要があるものと思われる。
日本人全体に死をさける傾向があるが、医師の世界でも、この傾向が強い。アメリカでは医学教育のなかにタナトロジー(死の医学)というのがあるが、日本には、その講座をおいている大学はない。せいぜい、単位とは関係のない講義が数大学で試みられている程度である。死をめぐる問題というのは、個々の医師が、臨床の場で逢着してはじめて考えてみるということになっている。日本では、医師も国民も死を直視しようとしていない。これが死生観を稀薄ななものにしているのだともいえよう。
日本人が死をさける別の面の理由もある。それは、日本人は孤独に弱い民族だということである。日本人は“むら”や“みうち”という集団の中でしか生きてこなかったため、自分を見つめることができない。したがって個の確立がない。小さいときからの育ち方もそうである。カギのかかる部屋で、両親はそろって外出して留守の間に子どもが一人で眠るという訓練を受けていない。これは大きくなってからも影響する。日本人は一人で遊んだり、考えたりできない民族になっている。仲間うちでワイワイいっていると安心感があるが、一人で考えるのは苦手である。これは結果として孤独に弱いということになる。
人間には、人といっしょにいたい“群れたい”という本能がある。集団欲と呼ばれているが、この反対が孤独である。孤独を好むのは精神分裂病自閉症以外にはない。誰でもが孤独を苦手としているわけである。しかし、孤独に挑戦することが、個の確立を生むのではないだろうか。
酒の飲み方をみても、欧米と日本はちがう。日本人は仲間でワイワイ、ガヤガヤいいながら飲む。しかし、欧米人は、家で一人でじわーっと飲む。欧米型の飲み方は、アル中を促進するという一面もあるが、じっと静かに飲むために、考えたり、本を読みながら飲んだりする。孤独に耐えた飲み方というものかもしれない。欧米人は、日本のように酒を飲んで、うまくもないのにカラオケで歌うなどということは考えられないのである。
孤独の究極にあるのが「死」なのである。孤独をさける人には死は考えられないのかもしれない。死は絶対的孤独だともいえよう。死ぬときには誰もいっしょに行ってくれない。心中の発想は、個の確立がないところから生まれてくるのではないだろうか。好んで孤独になれとはいわないまでも、ときには一人で考えることは日本人に必要である。