1/2「隅田川西岸 - 村上元三」中公文庫 江戸雑記帳 から

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1/2「隅田川西岸 - 村上元三」中公文庫 江戸雑記帳 から

「墨江両岸一覧」という二巻の、箱入りの巻物になった絵図がある。天明元年(一七八一)夏の刊行で、絵師は鶴岡蘆水、号を翠松、江戸金杉に住んでいた。題字に流宗東会、東江源鱗書、とある。
この「墨江両岸一覧」のあと、葛飾北斎が同名のもの三巻を描いているし、蹄斎北馬にも同じ隅田川の両岸を描いたものもあるが、ここでは鶴岡蘆水の「両岸一覧」について、当時の江戸のころの風景を書いてみる。
わたしの持っている二巻は、保存もいいし、画面全体にほどこした金砂子も、剥げていない。どんな人が持っていたのかわからないが、古い絵図やむかしの写本を手に入れると、どういう人たちのところを転々としてきたのか、それを想像してみるのも楽しい。
ところで、「墨江両岸一覧」の西岸、正しくは北西だが、隅田川の河口から、天明二年版の江戸大絵図と参照すると、先ず河口に佃島がある。
百間四方の島に摂津国三島郡神埼川東岸、佃島の漁師が移り住んだのは、寛永年間で、それまで向島(江戸の岸の向うという意味)と呼ばれていたが、佃島と改められた。その漁師たちが故郷から遷座した住吉神社が、いまでも残っている。
「両岸一覧」には、朱塗の住吉神社と数十戸の漁家が描いてある。ここは藤の名所、と言われ、花の咲くころは、わざわざ舟に乗って見物に行った江戸人が多かったらしい。「遊歴雑記」には、漁師の家の造りも、家財調度も変っていて珍しい、とあるが、故郷の摂津の習慣をそのまま伝えたものと思われる。
佃島の上流に、隣合うようにして石川島がある。はじめは中洲で、徳川の旗本石川八左衛門の所領地で、屋敷もあったところから、そういう名になった。石川家が、寛政四年、麹町永田町へ移った後も、島の名は残った。同じ年、火附盗賊改役長谷川平蔵が、無宿人たちを集め、州を島の形にした。後年、ここが石川島の人足寄場になった。
もともと日本橋伝馬町の牢は、未決囚も既決囚も一緒に収容していたが、天明年間、罪状の定まった者と引取人のない無宿者を、この石川島に置いて、人足として労働をさせた。多いときは五百人もの人足がいたが、明治に入ってから、ここに懲役場が出来て、二十八年、巣鴨へ移った。
しかし、「両岸一覧」で見ると、きれいな島に描いてある。まだ人足寄場になる前だからであろう、暗いものは画面から感じられない。
さて、河口から隅田川へ入ると、越前宰相の中屋敷がある。藩祖の秀康は家康の第二子で、その嫡男の忠直は若いころ粗暴の振舞があり、九州の豊後国萩原へ流され、五十六歳で世を去った。菊池寛の戯曲に、「忠直卿行状記」がある。
越前家中屋敷のあるところは、霊岸島で、隅田川へ新川という堀の水が流れている。「両岸一覧」に見えるのは新川三の橋で、それから二の橋、一の橋と続く。新川筋には江戸のころ、酒問屋がずらりとならんでいた。いずれも、灘や伊丹から海上を運んできた下り酒を卸す店で、大身代の商人ばかりであった。隅田川の岸にも、白い壁の土蔵がならび、いかにもゆったりした感じを与える。
その少し上流の堀に、乙女橋が架り、橋袂に船手役所がある。ここは、海賊奉行向井将監の管轄で、隅田川の取締に当っている。海賊といっても、海上で盗賊を働くという意味ではなく、むかしは水軍のことを言った。だから向井将監は、代々、江戸の水上警察長官というような地位にいたことになる。
この乙女橋の袂は、伊豆大島八丈島などへ送られる流人船の出る場所にもなっていた。流人の身よりの者たちが見送りにきて、ここで別れを惜しむ風景が、江戸のころは見られたわけだが、流人が島へ持って行く金は、十両ぐらいまでなら、役人も見て見ぬふりをした。
その上流に永代橋が架っている。長さ百三十間、元禄十一年(一六九八)、霊岸島と深川佐賀町をつないだ橋だが、それまでは舟渡しであった。元禄十五年十二月十四日、本所二つ目の吉良屋敷へ討入り、吉良上野介の首をあげた赤穂浪士は、この橋を渡り、江戸に入った。明治三十年に、むかしの位置から少し南に下ったところに、新しい永代橋を架けた。