2/2「隅田川西岸 - 村上元三」中公文庫 江戸雑記帳 から

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2/2「隅田川西岸 - 村上元三」中公文庫 江戸雑記帳 から

永代橋の上流に、一橋家の下屋敷があり、その塀外が三股河岸になっている。絵図で見ると、隅田川から西岸へ堀が入り、永代橋の下をくぐる。隅田川に面したところが、中洲と呼ばれ、夏は江戸の人間たちの涼み場所になった。「両岸一覧」にも、よしずの屋根をかけた茶屋が、ずらりとならんで、軒に赤い提燈がさげてある。毎年五月二十八日から七月二十日まで、隅田川の川面では花火があがり、それを見物する屋形船が出る。茶屋で酒をのみながら、花火を眺める客で賑わった。
講談でいうと、万治三年、仙台候が吉原から身うけした名妓高尾太夫が、意に従わないので、この三股で船から川中にへ切り落された、高尾の首だけが岸へ流れついたので、高尾明神として祀った、ということになっている。いわゆる仙台高尾だが、作り話で、事実ではない。
中洲の上流に、新大橋がある。元禄六年に架ったのだから、永代橋より先、両国橋よりあとに出来たことになる。はじめは、ただ大橋と呼んでいた。
新大橋から上流へ、両国橋までの西岸は、ずっと大名屋敷がならんで、天明年間は、ようやく両国橋の袂あたりで町家になっている。
両国橋の袂、上流と下流に御上り場というのが見える。河岸に石段がつき、厳重な柵をめぐらしてあるのは、将軍や御三家のあるじが船遊びをしたとき、ここから上陸したからであった。言うまでもないが、むかしの隅田川は水も澄んで、魚が棲み、将軍をはじめ庶民にとっても水練の場所になっていた。水戸光圀が少年のころ、父頼房と共に隅田川を横に泳ぎ切った、という話が残っている。
御上り場の横に神田川があり、柳橋が架っていた。このあたりの岸は、天明年間から江戸人の遊び場所で、一見して料理屋とわかる家が、ずらりとならんでいる。
その上流に、浅草御蔵がある。むかしは、旗本や御家人へ渡す米は、ここに保管してあった。一番堀から八番堀まで、すべて隅田川に面し、石垣で囲まれ、水門がついている。米蔵は十七棟で、一番からニ百五十八番まで、それぞれ番号が打ってある。御蔵の前に、札差商人の店がならび、蔵米を抵当に直参へ金を貸すのを商売にしていた。江戸のころ、札差に十八大通などと呼ばれた通人が多く、贅沢な遊び方をしていたのは、よほど利益があったからだが、明治新政府が樹立されるとともに、札差商は一軒のこらず、つぶれてしまった。いまでは、蔵前という地名だけが残っている。
歌舞伎でやる「十六夜清心[いざよいせいしん]」の、大寺庄兵衛が夜釣をしているのは、この御蔵の水門の前で、舞台にはたびたび使われる。
このあたりから、浅草の観音様が見えてくる。そして隅田川も、ここから上流は、殺生禁断になっていた。
駒形河岸に、白い漆喰塗の駒形堂が見える。江戸の古いころ、この駒形堂が浅草寺の総門に当った、と「江戸名所図絵」でも説いている。浅草の観世音へ奉納する絵馬をかけたので、駒掛堂といったのが駒形になった、という説がある。江戸のころも現在も、駒形は、こまかたで、駒形堂は、こまんどうと呼ばれる。
駒形堂の上流に、竹町の渡しがあり、町名の通り、河岸に竹屋がならんでいる。それから、吾妻橋になる。はじめは大川橋と呼び、東橋という字を使った書物もある。
浅草寺の見える河岸は、花川戸町で、もうこのあたりには武家屋敷は見えない。
花川戸から少しさかのぼると、待乳山聖天が望める。聖天下から山谷堀に入って、このあたりには船宿が多い。もちろん、山谷堀を舟で、吉原へ行く客のためであり、「両岸一覧」の画面も、なんとなくなまめかしい感じがただよっている。
山谷堀は、日本堤に沿って、吉原までつながっている。船宿から舟で行く客もあり、駕籠で日本堤を急いだ遊客もある。
山谷堀の上流は、橋場町で、それから瓦を焼く家が、ずらりとならんでいる。いわゆる今戸焼を作っていた家で、いまでも豚の蚊いぶしなどを焼く店が残っている。
それから上流には、商人の寮が多い。いずれも河岸に、舟をよせる石段があり、二階建で、しゃれた造りなっている。もちろん市中の裕福な商人の寮であり、このあたりは静かで、のんびり出来たろう。寮というのは、いまでいうと別荘だが、市中に店を構えた商人が、骨休めをしたり、客をするには、もってこいの場所だった、と「両岸一覧」を見てもわかる。
今戸橋が描いてあるが、ちょうど俎板を裏返しにしたような形で、欄干もなにもない。
ここから、上流の橋場の渡しへかけて、腰掛茶屋がならび、旅立ちをする侍や商人、それを見送る人々、縁台に腰をおろして休んでいる男女などが描いてある。真崎稲荷[まつさきいなり]の赤い鳥居が鮮かで、このあたりは江戸人の遊覧地にもなっていた。しかし、もう江戸のはずれで、上流は百姓地であった。釣をするのにも、いい場所だったが、いまは、俤もない。