2/2「役者 - 小林秀雄」文春文庫 考えるヒント から

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2/2「役者 - 小林秀雄」文春文庫 考えるヒント から

私は、新劇というものを見に進んで出向いた事は殆どない。理由は全く簡単で且つ消極的なものだ。新劇ファンではないからだ。例えば私は相撲ファンではないが、相撲のテレビなら毎日見るので、相撲ファンへの道はいつでも開いているのだが、新劇ファンへの道となると、私にはしめ出されているという気持がしている。実際にしめ出された事もある。
いつか俳優座が「ウィンザーの陽気な女房たち」をやった時、見ていて少々退屈して来た。というのは、酒を呑んでいたので、私は上機嫌であったが、舞台も観客も一向上機嫌ではないと感じて来たからである。千田是也が何やらぶつくさ言うので、「もっとはっきり言ってくれェー」と声援したら、見物達が怒ったような顔で私の顔を見た。やがて誰やらが仲々うまい仕草をするので、「その調子だゾー」と声を張上げたら、外に引張り出されて了った。新劇というものは、築地小劇場以来、相も変らず、誰にでも芝居を見せるのを目的としてはいない。新劇ファンという同志達を集める運動をしている。何もそれが悪いというのではない。少し上機嫌になったため間違えただけだ。しかし、所謂新劇運動の理論家達は、見物と役者との共演という演劇理論のいろはを、知らず識らずのうちに、おろそかにしているという事がないのであろうか。
私がここに毎月書いている感想に「考えるヒント」という題がついている。私がつけたのではない。編集者がつけた。そう題をつけられてみれば、そういうものかなと思っているだけだ。よく考えられた文章ではないが、考えるヒントくらいは書いてあるだろうという程の意味だろう。まあそう考えて書くのは勝手だから、そう考えて書くのだが、その編集者が、今月は「がめつい奴」でも見てはどうかと言ったので、忠告に従った。芸術座の「がめつい奴」は、昨秋以来、記録的な連続公演をしていて、主役の三益愛子さんは芸術祭賞を受けた。劇評は既に無用だとしても、何処からそんな人気が出て来たものだろう。
「がめつい奴」を見たら、これは様子の違った新劇だと思った。たしかにこれは演劇運動ではない。その虚を突いたものだ。だが、さてこれを何芝居と呼んだらいいのだろう。見世物のようでもあり、芝居のようでもあり、新鮮なようであり、陳腐なようであり、要するに何か得体の知れぬものが行われていて、これに向って得体の知れぬ人気が集中している。これは私の直感であって、悪口ではない。そういうものを大衆的なものと呼ぶなら、私には大衆という言葉も納得出来ると言うのだ。現代日本の大衆とは、何か全く得体の知れないものだと私はかねてから信じている。今日、大衆という言葉は、意味あり気に使われ過ぎた為に、中身が空っぽになって了ったのである。中身を取返さねばならぬ。取返して、中身は確かに得体の知れぬものともう一度合点し直した方がよかろうと思うのである。一歩踏み出すとは、いつもそういう事だ。好意を以て考えるなら「がめつい奴」には、ともかく一歩
踏み出してみたというところがある。気心の知れぬ客を集め、代は見てから戴こうというはっきりした処がある。
ずい分でたらめな芝居を書いたものだ。筋もなければ性格もない。私のような気心が知れぬ客からすれば、現前したのは大阪の無法地帯というよりも、まさに演劇の無法地帯であった。幕開きの簡易ホテルのセット、- みんなわけのわからぬ風来坊で、お互いに正常な人間関係を紛失して了っている。与えられた部屋割りだけが彼等の秩序だ。あの簡易ホテルのセットが、この劇の全構造そのものである。
つまりこれは劇というより、ガタピシした安物のラジオ・セットみたいなものである。ところが、このセットにスイッチを入れて電流を、物慾という電流を通さねばならぬ。それが三益愛子の役目だという仕組になっている。自分が熱演しなければ、この芝居どうなるものでもない、とはっきり承知の上での熱演であろう。他の役者も皆うまい。子役もうまいし、よっぱらいもうまいが、セットの構造上、てんでんばらばらの好演しか出来ない。劇の流れを何処で掴もうか、掴まえる手がかりがない。例えば泥酔したポンコツ屋が腹を刺される。あそこの田武謙三の演技には実に感心した。だが、ポンコツ屋の死に、何にも劇的なものがなければ仕方ないではないか。
人気は三益愛子が浚って了う。事実、この金貸しの婆さんだけが、たった一人の劇的人物なのである。何故かというとこの人物だけが合理的に生きようとしているからだ。逆説ではない。多くの人が劇的という言葉を誤解している。でたらめ事と劇的な事とは違うのだ。偶然は事故を生むが、決して劇を生みはしない。この婆さんだけが人間らしい意識を持っている。偶然は彼女をとりこにする事が出来ない。彼女は、金を溜めようと自身に誓い、その誓いのとりことなっている。彼女の性格が劇を生む。「がめつい奴」の芝居の魂は婆さんが独占している。あとは抜けがらだ。動物的な悶着と騒動とがあるだけだ。
さて誤解しないで欲しいが、私は作者菊田一夫を悪く言っているのではない。私の言った事なぞ劇評のいろはである。恐らく作者は百も承知で仕事をしたのだ。戦後の解体的な風俗図は、見世物になっても、芝居にはなりにくい。芝居の伝統的な血を通わせるスイッチを何処かに取りつけねばならない。作者がそうはっきり計算したとは言わないが、菊田という苦労人には、その点は本能的にわかっていたものと察せられる。或る友人が、芸術祭賞は主役と作者とに分割すべきであったと言った。正説であろう。
だが、私はやはりあの通りでよかったという考えである。何故かというと、私は前々から芝居では役者第一という考えだからだ。作者は芝居の裏にかくれていた方がいい。毎日新しく幕があく。役者はその日その日の出来不出来で、気心の知れぬ見物と協力して、まことに不安定な、脆弱な、動き易く、変り易い、又それ故に生きている世界を創り出す。芝居は其処にしかない。
(文藝春秋昭和三十五年三月)