「なべ - 林屋辰三郎・梅棹忠夫・多田道太郎・加藤秀俊 共同討議録」中公文庫 日本人の知恵 から

イメージ 1

「なべ - 林屋辰三郎・梅棹忠夫多田道太郎加藤秀俊 共同討議録」中公文庫 日本人の知恵 から

なべ

冬の料理といえば、なんといっても「なべもの」である。一つのデーブルをかこんで、湯気のたつなべから、ぐつぐつ煮たった肉や野菜をとってたべる。からだは暖まるし滋養はあるし、食事するものがほんとうにうちとけた気分になれる。
一人一人が会席膳を前に置いて食事するのとくらべてみれば、なべ料理の特色がはっきりする。まず、選択の自由がある。なべのなかから、自分の好きなものを好きなだけ、とってだべたらよい。遠慮気兼ねはいらない。つぎに、味つけも、食事するものの自由になる。はじめから味のついている料理をたべるのとはちがって、それぞれが好みに応じて味つけをすることができる。ダシにしてもしかり。また、量の融通もきく。大勢でたべるのだから、一人くらいの人数の増減はさしてひびかない。一人前という定量が、あるようでない。余れば余ったで、翌日また少し材料をたせばけっこう食べられる。
なべもののとりえは、そうした気安さにある。老若男女が、年齢・性別を解消して、自由にふるまえるわけで、最も民衆的な調理法ということができよう。
なべをかこめばお互いがうちとけた気分になれるといったが、むかしから対人関係の親密さを表現することばに、「一つかまのめしを食った仲」ということがある。日本では、共同飲食をしたことが、血のつながりにも似たつよい連帯意識を呼びおこすのだ。というよりは、共同飲食は長いあいだのつきあいで気心の知れたもの同士のおこなうものであり、そうすることでさらにお互いの結合意識を強めたものである。ところがこの頃は、見ず知らずのものがいきなりなべをかこむ。お互いの親密さをますためには、なべ料理をかこむのがてっとり早いのだ。インスタント交際法とでもいおうか。つまり、なべものは交際原理として、もとは終着点であったものが、最近では出発点として利用されている。
とにかく「一つかまのめし」を食えば、あるいは一つなべをかこめば、和気あいあい。めいめいがどんなに異なったものの考え方の持主であろうと、自然と親密感がわいてくる。つまり、なべをかこむことが、人間社会の組織原理として機能しているわけだ。それは、信仰をともにするもの、あるいはイデオロギーを同じくするものが、信仰や思想によって結びつくのではない。信仰や思想がちがっていても、そうした相違を越えて、共同飲食することで、よそもの意識が解消される。なべ料理とはそうしたものである。
西洋では古来、信仰や思想を異にするもののあいだで、苛烈な闘いがいくたびとなくくりひろげられてきた。お互いが相手を異端者呼ばわりして、きびしい信仰闘争、思想戦争をはげしく展開してきたことは、歴史の教えるところだ。しかし日本では、そうした事例はきわめて少ないし、それほどのはげしさ、きびしさはみられない。なぜか。なべ料理にみられるような、思想や信仰とちがう次元での結合原理をわれわれ日本人がもっていたからではないか。
人間社会は、合理主義の次元だけで動いているのではない。とくに最近のように人間関係が複雑になってくれば、合理主義のもつ非合理性があらためて目立ってくる。その際、日本には合理主義とはちがったなべ的次元での結合原理が存在していることは、たいへん貴重なことである。
ところで共同飲食もその起源をたどれば、宗教的なものであって、神に捧げたものをともにたべることによって、氏子はお互いが神聖化されると考えた。「一味同心」とは、神に捧げた水をくみかわした仲間のことである。領主の圧政に抗して闘った中世の土一揆も、こういう神をかこんでの共同飲食が強固な団結を生みだす源になっている。一般家庭でも、荒神さまの直轄するいろりの火で煮たきしたものでなければ、正式の食物とは認められなかった。お客にすすめる料理は温かいのにこしたことはないのだけれども、家で食物を調理する「清き火」は一個所にしかないのだから、配膳をするあいだにどうしてもさめてしまう。しかし、たとえさめてしまっても、同じ火、同じ器で調理したものを主客あいともにたべる。つまり共同飲食のほうが重視された。
共同飲食から神聖さという宗教性がなくなるのは、江戸時代になって町人社会が確立してからのことだが、その前提として、まず喫茶の習慣の普及をあげなくてはなるまい。室町時代には、農村のひとびとは何事につけ寄り合い、みんなで同じ茶をいっしょにすすって楽しむという茶寄合がしばしばおこなわれた。茶が一般家庭に入ってくるまでは、水をわざわざ温めて飲むようなことはしなかったであろう。茶が入ってきたために、はじめて温かい飲料というものが親しまれることになる。冷えたものより温かいものが尊重されるようになったわけだ。食物もやがて、これをさますまいという心づかいから、なべとゆきひら(行平鍋)とかいった道具がだんだんと考え出されてくる。それに応じて、一つの清き火もとはいくつにも分裂する。柳田国男氏のいう「火の神道」の後退である。こうして江戸時代に入れば、ふぐなべ、あんこうなべ、鳥なべ、はまなべ等々、小なべの利用にかけては世界無類とされるほど、なべ料理が発達する。
さて、こんにちなべ料理のなかで最もポピュラーなのは「すき焼き」である。
明治以前までの久しいあいだ、わが国では、仏教の影響で牛馬の肉をたべることは、けがらわしいこととして忌みきらわれてきた。ところが、幕末になって外国との交渉が開けはじめると、牛肉を食べることが文明開花のお手本のようにもてはやされだす。もともと小なべの利用はお手のものという伝統があるのだから、牛肉の食用はまず牛なべ、すなわちすき焼きという形で始まる。つまり日本の伝統と文明開花の交叉点として牛なべが発生し、やがてそれはすき焼きとして日本料理のなかで不動の地位を確保する。いまやすき焼きといえば、最もインターナショナルな日本料理である。アメリカの大都会のレストランにも、スキヤキはメニュのなかにちゃんと入っている。タイの片田舎の料理屋でスキヤキと書いた紙片が壁に貼りつけられてあるのを、日本から行った学術探検隊が見て、びっくりしたという話もある。
住宅の変遷という観点からみても、なべ料理はたいへん興味ぶかい。台所といえば、こんにちでは調理配膳をする場所ということになっているが、むかしはちがう。台所とは別に厨があって、食物はそこで煮たきした。台所は膳部を調整する配膳場だったのである。厨には厨人[くりやびと]がいて食物を調理し、その家の夫人は台所で配膳を指図した。貴族の夫人を御台所[みだいどころ]と呼ぶゆえんである。厨で煮たきしたものを台所で配膳し、それをさらに座敷に運ぶわけだから、せっかくの温かい料理もさめてしまう。なべものは温かいのがとりえなのだから、さめてはなんにもならぬ。なべものの発達は、台所と厨の別をなくし、調理場と食堂(座敷)を直結する方向にはたらかざるをえない。
いまはやりのリビング・キッチンは、まさにそうしたものである。厨と食堂が有機的に組み合わされ、台所を廃止することで、調理・配膳の手間をうんと簡便化している。こうしたシステムのなかでこそ、なべ料理は最もよく活かされる。なべ料理とリビング・キッチンとは切りはなせない。最も現代風のリビング・キッチンにうってつけのモダンな料理 - それがなべものである。
『ベター・ホームズ・アンド・ガーデンズ』というアメリカの家庭雑誌が、最近なべ料理の特集をやっていた。そのキャッチ・フレーズは“Cook-it-yourself”? -
Do-it-yourselfということが、日曜大工の奨励などという形で、アメリカ家庭の一つのスローガンになったが、こんどはcook-it-yourselfでいこうというわけだ。そこでは、調理法としてのなべ料理のもっている融通性、自由さがとりあげられているだけだが、そのアメリカ人たちにも、そのうちに人間社会のなかでなべ料理のはたす交際・組織原理としての有効性がだんだんとわかってくるにちがいない。
そういえば、西洋人が日本に来てスキヤキを好むのも、単なる異国趣味からだけではなく、その社会的効用をすでに感じとっているのかもしれない。フジヤマ・ゲイシャはともかくとして、すき焼きのほんとうのよさは、日本の社交性のシンボルとして大いに礼賛してもらってけっこうである。