2/2「書について - 山口瞳」新潮文庫 礼儀作法入門 から

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2/2「書について - 山口瞳新潮文庫 礼儀作法入門 から

書の要諦は、レイアウトにあり

そこでいくらかいい気になっていたのであるが、小説家になってから困ったことが起きた。
色紙を書かされる。それがどうにも苦痛である。マジックインクでいい加減にやればいいと思われるかもしれないが、性分で、それがやれない。下手なくせに、文士は筆で書くべきだなどと思ってしまう。とにかく、旅先などで色紙を持ってこられると、腹の底からゾーッとなってしまう。
あるとき、出版社の主催で、作家の色紙の展覧会が行なわれた。私はどうすることもできなくて、ふざけて「野に野犬あり」となぐり書きして渡したら、さすがにボツになってしまった。ボツになってよかった。
ここで、またまた途中を省略することにする。いま、私は、色紙をもとめられることが苦痛ではなくなっている。むろん、自慢できるような字が書けるようになったというのではなくて、先方で色紙を用意して、私に書の練習をする機会を与えてくださったのだと思うようになった。下手は下手なりに、ある種の自信というか余裕が持てるようになったということができよう。
どうしてそうなったか。
ひとつには、いい道具を使うようになったからである。私が色紙のことで悩んでいるのを知った友人たちが硯、墨、筆、紙などを恵んでくれた。すべて貰いものである。ありがたいことだ。最高級ではないにしても、私が使うのはもったいないくらいの一流品ばかりである。
書にかぎったことでなく、稽古事はすべてそうだと思う。いい道具を使うと上達する。将棋でもそうであって、素人は、良い盤と駒を手にいれると、それだけで大駒一枚強くなると言われている。なぜかというと、いい道具を使うと、心があらたまり、将棋でいえば丁寧に指すようになるからである。縁台将棋はどこまで行っても縁台将棋である。これは、稽古事にかぎらず、非常に大切なことではあるまいか。弘法は筆を選ばずというのは誤りである。良寛でも宣長でも、あるいは森鴎外でも、いい筆といい墨を使っていたことが書を見れば一目でわかる。
私は次第に書のおもしろさを知るようになった。書のおもしろさというか、その要諦はなんであろうか。
私は書の要諦はレイアウトだと思う。字配りのおもしろさである。かりに写経をするとして、一字一字が上手ではなくても、一字一字をきちんと楷書で書いて、それが最後まで乱れずに同じ呼吸でもって書きあがったとすれば、それはそれで相当な迫力が生ずるのである。私は、いわゆる前衛書家と称される人の書を認めない。あれは、まあ、書の名を借りた絵画、もしくはデザインである。
次に、この考えを継承した線上にあるところの天衣無縫である、ヤブレカブレである。一本の線を引く。点を打つ。どうしてもうまくゆかない。失敗したと思う。「十」という字を書くとする。はじめのヨコ棒の「一」で失敗する。しかし、それが次のタテ棒一本で生きてくることがある。そのおもしろさである。そこに書く人の個性があらわれる。それが私の言うレイアウトになる。色紙に文字を書いて妙な空白が生ずることがある。その空白が次の文字で微妙に生きる場合がある。そこがおもしろい。

「書について - 山口瞳新潮文庫 礼儀作法入門 から

書は芸、遊び、誰にでもできる

音楽はどんな楽器も駄目、歌も歌えない、踊りも踊れない、絵も描けないという人がいるにちがいない。かく申す私がそれである。そういう人に書をすすめたい。
なぜなら、第一に、書は自己流でいいからである。前に書いたように書家の書はつまらないのである。文人、武人、政治家でいい字を書く人がいる。そういう書は、きまって個性的である。すなわち自己流である。
第二に、六十の手習いという言葉があるように、六十歳を過ぎてからでも上達するのは書だけである。ほかの芸事は、二十歳を過ぎてしまってからではもう遅いのではないか。書は、極言すれば、死の寸前まで上達する可能性があるといっていい。
当代の書家であった吉野秀雄先生は、字を書く前に、上等のブランデーを少し飲んだ。気合いを重んぜられたのだろう。亡くなる前には、心臓喘息の発作のあるときに起きあがって筆を執ったと私に言った。体が弱っても字は書けるのである。
第三に、子どもの字がいちばん良い字なのだということがある。だから誰でも自信をもっていいのではないか。つまり、書とは、童心にかえれるか、いかにして無心になれるかというひとつの賭けであるといってもいい。この賭けには誰でも参加できるのである。
それでは、次に、思いつくままに、その上達法について書いてみよう。
良い道具を使えと前に言った。一本二千円の筆があれば一生つかえるとは言わないが、二本あれば十年や二十年は大丈夫だ。筆だけは良いものを使って大事に保管していただきたい。
墨や硯になると、近ごろはべらぼうに高くなって高級品を買いなさいとはとても言えない。まあまあの品を探すよりほかない。ただし、書の墨は濃いほうがいいと思って間違いがない。練習用の紙は新聞紙でもいい。
この原稿が印刷されている明朝体の活字は、練りあげられた非常にいい書体だと思っている。ふだん、明朝の活字に似せた字を書くことに心がけること。
自信を持つこと。駄目だ駄目だと思っていると上達しない。一本の線で失敗しても、次の線で助けられる。ひとつの字で失敗しても次の字で救われることがある。自信をもち、しかも無心になることを願い、伸び伸びと思いきって書くのが楽しい。時には酒を飲んでから書くのもいい、書は芸であり遊びである。
ある日、突然、彼女のところに巻紙の恋文が届くなんていうのは、思っただけでも楽しいじゃありませんか。