「老いの英語学習 - 遠藤周作」集英社文庫 お茶を飲みながら から

イメージ 1
 
 
「老いの英語学習 - 遠藤周作集英社文庫 お茶を飲みながら から
 

昨年の十月から渋谷のベルリッツ学校に英語を習いに行っている。特に目的があるわけでなく、また今更この年で英語を習っても役に立つとは思えないが、習うことが楽しいのでせっせと出かけているわけだ。
戦中派の私は中学時代もろくに英語を習得できず、大学は仏文に行ったため、初級科からはじめた。初級科ではまず百五十回の授業を受けねばならない。
渋谷にあるこの学校に最初の日、とびこんで自分の英語力のテストを受け、「あなたは初級からはじめなければいけません」と言われた時はなるほどと思ったが、その授業料が六十数万円と聞いた時はびっくりした。こんな高額とは思わなかったのだ。思案にくれながら家に戻り、老妻に相談すると、おやりなさいと言う。そこで彼女にその金を借りて授業料を払った。
あとで人に聞くと英語の個人教授の場合、これが東京では普通の値段だという。ベルリッツの場合は一時間が四千数百円の割になるが、他の英語教師に個人的に習うと、五千円、時には六千円もとられるそうだ。
しかし、まとめてかなりの金を払ったとなると休むのも勿体なく、せっせと通うようになったし、授業も真面目に受けるようになる。その意味では値段の高いのも悪くはなかったようだ。
授業は好きな時に何レッスンでも申しこめる。小さな個室で差しむかいに一対一の授業は一時間ごとに先生が変る。さっきは米国人の先生、次は英国人の先生というわけだ。
2カ月、3カ月と続けているうちに、日本人と結婚した先生の英語はわかりやすく、日本人と結婚していない先生のそれはわかりにくいことに気がついた。というより日本人と結婚している先生は日本人的発音に馴れているから、こちらの言わんとすることを素早く理解してくれるのだろう。
もともと何かの目的があるわけではなく、ただ習う楽しみのために受けているレッスンだから気が楽だった。通うのが一向に苦痛ではなく、むしろ仕事の合間に一服休憩の時間と同じようなものとなり、自分でもよくやるよ、と思うほど、せっせと学校に行った。
ある日、一時間のレッスンが終って、次の授業を待つ間、今習ったことをひとり復習していると、教室の戸をコツコツ叩く人がいる。顔をあげると窓から曾野綾子さんがニヤニヤと笑いながら、こっちを見ている。びっくりした。彼女が英語が上手なことは大使館のパーティーなどで実際見たことが幾度もあるから、今更こんなところで勉強する必要はないのだ。どうして、と訊ねると、まだまだ、わたし駄目なのよと笑って答え、自分の教室に戻っていった。
先生に彼女の英語をきくと、曾野さんはスペシャル・コースという授業をうけ、これはもう英語が熟達している人に磨きをかけるためのもので、「あなたとはまったく違うのです」と言われた。さもありなん。
別の日、今度は学校の入口で高橋たか子さんにばったり会った。彼女はその前に、私にベルリッツ学校の内容について電話でたずねてきたが、まさか本当に習うとは思ってもいなかったのだ。そして彼女の場合は英語ではなく、既に習得した仏蘭西語の会話を更に続けるためにここに来ているのだった。
思いがけぬ人たちが同じ学校でこっそり勉強しているのを知って、私は更に他の知人もここに来ているのではないかと興味を持ち調べてみると、俳優の故・木村功氏や、うつみ宮土理さんも英語科にいることがわかった。みんな忙しいのだろうに、蔭でなかなかやっているのだ。
私が直接、その会話を耳にした限りで英語がうまいなあと思ったのは、アジア・アフリカ作家会議の折、同行した伊藤整氏と加藤周一氏だった。また日本文学者会議の時の佐伯彰一氏と三浦朱門氏だった。個人的に招かれて米国人や英国人と会話している時の江藤淳氏や村松剛氏だった。それから思いがけなく、かなり、しゃべるなと驚いたのは阿川弘之だった。
昔、車の運転を習いに行っていた時は免許がとれるまで、運転できる人が皆、偉くみえたが、近頃は英語をしゃべれる人に羨望を感じて仕方がないのはベルリッツに通っているせいかもしれぬ。NHKの教養番組の英語の時間もよく聞くようになったが、自分の娘ぐらいの女の子が美しい発音でしゃべっているのをポカンと口をあけて見ほれていることがある。
とに角、昨年十月から七月の暑いさかりまで、それほど怠りなくベルリッツに通ったお蔭で、やっと夏の暑い日に、初級科を卒業した。だが、百五十レッスンを終って、どのくらい進歩したかはまったく、おぼつかない。ある日はひどく進歩したように思えるのに、別の日はまったく駄目に思え、しょげながら学校から帰る日がある。
九月になって中等科に入学した。実はこの原稿を書く前日、久しぶりで学校に出かけたらたった一カ月、休んだだけなのに実力(?)が低下して、若い女の先生に幾度も溜息をつかれ、泣きたい気持で帰宅したのである。自分の今までの経験から言って、ある語学が一応しゃべれるようになるためにはその国に一年以上、生活すればいいことはわかっているが、年をとってしまった今の身ではそんなことはとてもできそうにない。
この間、柴田錬三郎氏の葬儀の時、待合室で黒岩重吾氏と隣りあわせになった。黒岩氏が二、三年前からカセットやテレビで英語会話を懸命に独習されているのを耳にしていた私は、日暮れて道遠きことをしきりに歎[なげ]くと、氏もまた、同じことを溜息をつかれ、何ともいえぬ親近感を感じた。老いの手習いは楽しいことは楽しいが、時間がかかることも確かである。