2/3「これが海だ - 北杜夫」中公文庫 どくとるマンボウ航海記 から




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2/3「これが海だ - 北杜夫」中公文庫 どくとるマンボウ航海記 から

船に乗ることになったとき、やはり気になったのは船酔いのことである。果して自分が船に強いのか弱いのか全然わからない。六〇〇トンの船では相当揺れるものと覚悟せねばなるまいが、ドクターが真先にぶっ倒れてくたばってしまってはあまり見っともよい図ではない。そこで昔海軍の軍医であった知人に電話してみた。
「いやあ、それはやっぱりやられますよ。私なんか最初のうちはベッドの傍にドラム罐を持ってこさせて吐き通しでしたよ」
これはイカンと私は思い、もう一人、これは空母に乗って真珠湾などに行った親戚の者に訊いてみた。
「大きな空母で平気になっててもね、また小さな駆逐艦なんかに移るとやられるね」
その小さな駆逐艦とはどのくらいかと訊くと二千トンとのこと、こいつはますますイカンと私は考えた。
一万トン近くの貨客船で大圏コースを通り太平洋を往復したMは、強情にも俺は酔ったとは絶対に言わなかったが、
「船なんて、あんた、ヤブレカブレのものだぞ。アリューシャン近くになるとがぶりやがってな、サロンの椅子は倒れる、皿はとぶ、ところがそうなってもエンジンの奴ゴトゴトゴトゴト一向にとまらないんだね。たまには休んでもいいと思うんだが、どんな波がきたっておかまいなしだ。ひどいもんだよ。俺はもうアキレはてたよ」
ここに至って私はついに覚悟を決めた。
出港して二日目、もう新米のボーイが廊下にうずくまってゲロゲロやっており、私はまだ何ともないのでチョッピリ自信がついた。船にはそのほか三名の初航海者がいたが、やがて食席につくたびにその人たちの姿が見えなくなったので、もう少し自信がついてきた。荒天のときは食器が落ちぬようにテーブルに木の枠がとりつけられる。私はさすがに食欲こそなかったが、ヨガの秘法であるコブラねポーズ、獅子のポーズをし、アラーの神、マヤの精霊、インカ帝国の太陽神インチ、マサカアカツカチハヤビアアメノオシホミミノミコト、ギリシャの恐るべき巨人エンケラドス、さては古代ペリシテ人ダゴンなどに祈り、一度だって欠食しなかった。それでもそのうち自分もやられるだろうと決めており、今か今かとそれを待っているような状態であった。
沖縄に差しかかろうとした午前中、素晴らしい日和になった。海はどこまでも平たく群青にひろがり、油絵具を溶かしこんだような鮮やかさである。館山を出て以来、前甲板はずっと波に洗われていたので、こんな静かな海になると、なんだか嘘みたいな悪いみたいな気分である。アッパー・ブリッジに仰向けに寝そべると、澄みわたった空があり、白雲がたむろし、マストはごくゆったりとかしぐきりで、船はまったく静止しているとしか思えない。ただ静かにゆるやかに揺籠のごとく私をゆすぶってくれる。
ところがこれが海のみせるペテンであり、この日の夜半から果然シケ模様となった。二時すぎごろ、ウトウトしていた私は、けたたましい物音で目を覚ました。周囲はおそるべき騒音に満ちている。隣の医務室でなにか金属のぶつかる音、さらに廊下をへだてた炊事室の方角でセトモノの砕けちる音、そういう音響が船窓に波のぶつかる音や間断ないエンジンの響きに入りまじり、とても寝ているどころの騒ぎではない。私は二段ベッドの上の段にいたが、カーテンをめくってヒョイと下を覗くと、床一面に棚や机から落っこちた書類や鉛筆などが散乱している。机上の物品は船のローリングにつれて、右に左に猛烈な勢いで辷って行ってぶつかりあい、床の上に転落する。まさにゼウスが雷電を投げて巨神どもと大戦争をぶっ始めたごとき騒ぎである。
さらに医務室で凄まじい音がつづくので、私は起きて行ってドアを開けてみた。するとケシカラヌではないか、タイルの床一面が水である。船がゆらぐたびに排水口から海水が逆流し、そいつが船の傾斜につれてザブンザブンと波打っている。手術台の上にかけておいた私のズボンがその中を漂い、重い消毒器がものの見事に転落して底を向けている。一方の隅に重ねておいた木箱は全部辷りだしていて、大きな手術用のライトが首をふるたびに気がチガいそうな音をたてて手術台にぶつかる。私はしばらくアッケにとられてこの光景を眺めていた。それから気をとり直してビショ濡れのズボンを拾い、消毒器を起し、割れたビンを拾いあげた。ライトの奴はどうしても首をふるのをやめぬので、私は処置に窮して床の上にころがしてしまった。次の日こいつは紐で永久に解けぬくらいガンジがらめに縛りあげてやった。部屋に戻るとここも雑多な転落物で収拾がつかない。私は途方にくれて、下の段に寝ているサード・オフィサーを覗きこんでみた。すると破廉恥にもこの男は、牛一頭呑みこんだバイソンがとぐろを巻いたごとく、何もかもてんで気づこうとせずに寝入っているではないか。左様か、と私は思った。どうやらこんなことは当り前のことらしい。それでは慌てるだけ損である。私は自分のベッドに這いあがり、あとはどうともなれ、物すべて砕け散るがよい、と甚だ残忍な心境になった。