「青春の一冊『ぼくらは生れ変った木の葉のように』 - 俵万智」文春文庫 青春の一冊 から

 
 
 
イメージ 1
 
 
 
「青春の一冊『ぼくらは生れ変った木の葉のように』 - 俵万智」文春文庫 青春の一冊 から
 

言葉は、基本的には記号だ。だから読書による感動というのは、そこに印刷されている文字という記号を脳が読みとって、その意味するところを理解して、初めて成り立つ。ほとんど無意識ではあるけれど、日本語という記号が頭を通過して、それが心に届く。
あたりまえといえばあたりまえのことだ。今さらこむずかしく言う必要もないぐらい。わかりきったこと。
ところが、どうもそういう基本のルールを超越したところで、感動してしまうことがたまにある。言葉という記号が、頭を通過するプロセスをとばして、直接心にきてしまう、とでも言おうか。
そういう経験を初めて味わったのが、清水邦夫作『ぼくらは生れ変った木の葉のように』だった。この戯曲を読んで私は、わけもわからず興奮した。言葉のひとつひとつに打ちのめされるように、心がふるえた。そしてそれが、何故だかわからない。頭では理解できない部分がほとんどあるにもかかわらず、どうしようもなく心に迫ってくるのだ。
高校に入学してすぐ演劇部に所属した私は、その部屋でこの本に出会った。ページをめくるとタイトルの下に

泣かないのか?
泣かないのか一九六〇年のために
ぼくらは生れ変った木の葉のように
無力なギリシャへ出かけよう
(ギンズバーグ)

とある。この詩句の歴史的な背景や
意味などは全く知らない。が、これが扉のところにおかれている具合いにしびれてしまう。幕が開く前の呪文のようだ。「一九六〇年のために泣く」という発想、「生れ変った木の葉のように」という表現、「無力なギリシャ」という見方、すべてが新鮮たった。そしてそれからが、自分の中にある、常識にしたがって積みあげられてきた言葉の積み木を、ガラガラとくずしてしまう。もちろんこの詩句は清水邦夫のものではない。が、それらによってまず私達は、それこそ泣きたいような気持ちになって、生れ変った木の葉のように本の世界に入ってゆく。
夜、男女一組をのせた一台の車が、ある家のリビングルームに突っ込んでしまうところから話は始まる。二人は「堕落した日常性からの脱出のために」放浪を始めたのだが、現実は乞食旅といったところ。車を突っこまれた家には夫と妻と妹が住んでいて、彼らは奇妙に暖かく二人を迎えいれる。驚きもせずにもてなし、二人を住まわせ、あるときは突然芝居ごっこを始めたりする。現実にはちょっとありえない感じの家庭である。とまどったりひきなおったりする男女と、かみあったりかみあわなかったりする夫と妻と妹の会話。
「歓迎されちゃ困るんだよ。気味が悪いんだよ。(中略)期待もされなきゃ絶望もされない。それが普通なんだ」
という男のセリフにしたがうなら、まったく普通とはいいがたい世界が展開してゆく。そんな彼らの言葉のやりとりが、頭の中というまわり道をせずにダイレクトに、ちょうどこの芝居の冒頭の車のように、心のリビングルームに突っこんでくる。
しびれてしまったのは私だけではなかった。演劇部員一同、みんな夢中になってしまい、秋の文化祭にはこれをやろうということになった。
生まれ初めての舞台、私は登場人物の中でも最も不思議な存在である「妹」の役を演じた。ド近眼で無口なのだが、突然詩集を持って朗読を始めたりする。作品のキーワードめいたセリフも多い。最後は、男のもつナイフに自らの身を投げかけて死んでしまう。
セリフとして声に出してみると、目で読んだとき以上に強烈な言葉たち。「ただあたしにわかることは、あたしたちのなかで、一つの泉が泣いているだけ。ただ一つの泉があたしたちのなかで.....」私は、妹のこんなセリフが好きだった。一つの泉とは何ぞや?などと考えたりもしたが、もちろん明確な答えなど出ない。ただ、くり返しくり返し練習をしているうちに、本当に自分たちの中で泉が泣いている、という気になってきた。泉が泣いている - この美しい言葉が、真実のものとして感じられてきた。そしてそのことが嬉しく、そしてそのことで充分だと思った。
ともにしびれ、ともに練習を重ね、ともに舞台に立った仲間たち。なかでも、男の役をしたM君と夫の役をしたS君と妹役の私は、すっかり意気投合し、十年以上たった今でも本当にいい友達だ。今ではそれぞれ社会人になり、仕事を持っている。S君は京都、M君は福井、私は東京だから、年に会えるのは数回。それでも会えばたちまちあの頃の気分に戻って、くったくのないおしゃべり。この十数年に変わったことといえば、そこに煙草と(注・私は吸いません)お酒が加わるようになったことぐらいたろう。時々『木の葉』の話も出る。ふざけてセリフを言いあったりする。『木の葉』の登場人物たちが突然劇中劇を始めるように。そのあたりの呼吸や会話の楽しさには、やはり青春時代を共有してきた者同士ならではのものがある。共有 - もちろん芝居だけではない。恋の悩み、進学の悩み、仕事の悩み、エトセトラ。ともに痛みを分けあってきた。その友人と出会った最初のきっかけのところに『木の葉』があったわけである。
一人のときも、たまにこの本を読み返すことがある。するとどうしても仲間の声がそこに聞こえてくる。その声をともなった形で、文字が目に入る。そして頭の中に描かれるのは(作者には申し訳ないけれど)自分たちでこしらえた拙い舞台装置だ。私にとっては、まさに青春の一コマと重なりあう一冊である。