1/2「近代日本の作家の生活 - 伊藤整」岩波文庫 近代日本人の発想の諸形式 から

 
 
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1/2「近代日本の作家の生活 - 伊藤整岩波文庫 近代日本人の発想の諸形式 から
 

江戸末期の文学者の物質生活がどのようなものであったかについて、ここに野崎左文の『私の見た明治文壇』から、野崎左文の師、仮名垣魯文の生活に関するところを引用しよう。
魯文は安政二年(一八五五年)十月二日、ちょうど安政の大地震の起った日には、数え年二十八歳になっていた。時代は早熟早老の時代であり、彼は二十歳頃から著述生活をはじめていたから、その時には中堅作家という立場にあったようだ。
その日魯文は「一冊の読切本を脱稿しその草稿を通二丁目の書肆糸屋庄兵衛方へ妻よしをして持たせ遣り、定めの作料金弐分を受取り来し、内一分を地代の滞りに払い、残り壱分にて米を買い、妻は井戸端で米を洗い自分は蒲団を被って書見中、突如としてかの安政の大地震が起り、魯文は梯子の下で壁土に埋られた」のである。
その当時の「作料」というものは、字数を計算すると読切本一枚約三十字詰め二十二行として本文四十枚(八十頁)の字数か二万六千四百字(序文は別)、これを現時の四百字の原稿紙に引直せば六十六枚である。『文庫』昭和二十八年一月号に、南島隆平氏が馬琴の天保五年の『八犬伝』の稿料の現在の金額への換算を発表しているが、時代が約二十年遅れるから、南島氏の換算率のうち、もっとも高い場合の推定を借用すると、一両は約一万円に当る。二分は五千円である。私自身の今の小説稿料の中位の標準で言うと一枚が千円であるから、六十六枚の原稿に対して、私は六万六千円を期待する。魯文はそれに対して五千円しかもらえなかった。そういうような状態であったから、それを書き上げた日に米が無くって、その金で買った米を炊いたという生活であったのも当然である。つまり作家は月に百枚か百五十枚書けるのが普通はせい一杯の能力であるから、魯文は月に一万円か一万五千円の収入であったことが分る。
幕末頃では、物価騰貴のため作料も上って合巻物一部(上中下三冊)が三両乃至五両であった。明治三年に魯文が『西洋道中膝栗毛』の初編を書いた時、その作料は一編十両であったという。この頃、三等巡査の俸給が五円であった。この時の五円は現在の一万五千円程度と見ることができよう。ところで『西洋道中膝栗毛』初編ば、字数にして約一万六千字、四百字詰の原稿紙にして四十枚である。そうすると四十枚に対する稿料が約三万円となる。一枚八百円位になる。しかし考慮に入れなければならない事は、当時魯文は通俗作家の第一人者で、最も読者の多い作家であった。現在(一九五四年)魯文級の大衆的な人気のある一流作家の小説の稿料は、多分三千円から五、六千円に達している。それに較べれば、魯文の八百円という稿料は、今の純文学作家の中の新人級の人たちが得ている稿料と同じもので、やっぱり安いのである。
江戸時代には、作家が原稿料だけで生活できるということはほとんど考えられなかった。山東京伝は、銀座一丁目の東側で店を開いて売薬を営んだ。読書丸、小児無病丸などが彼の売った薬である。また彼は煙管や煙草入れなどを売った。銀座と言うと、その当時は場末であって、木賃宿や大衆食堂などの並んでいるような町であった。
京伝の弟子馬琴は、文筆だけでは生活できないと師の京伝にさとされて、初めは占師になり、後では下駄屋の婿になった。魯文は花笠文京の弟子であるが、作家としての出発に当って諸作家賛助執筆を得た名ひろめのパンフレット「名聞面赤本[なをきけばおもてあかほん]」を出すに当って、師の文京に連れて行ってもらって、晩年の馬琴を訪ね、狂歌を一首はなむけとしてもらった。それが嘉永元年(一八四八年)のことである。魯文は本名を野崎文蔵と言い、京伝が銀座の東一丁目辺で薬屋を営んでいた頃、その筋向いに当る鎗屋町即ち銀座西三丁目辺に、魚屋の子として生れた。
魯文は名ひろめのパンフレット「名聞面赤本」を出してから六年目(一八五四年)位に文筆業者としての自活をはじめたが、彼は著作の外に手紙や引き札(商店の広告ビラ)の文案などを書き、またその家で古道具屋も兼業した。その少し後には、彼は文士の兼業として伝統的な売薬業をも兼ね営んだ。彼の売ったのは、牛胆煉薬黒牡丹[うしのきもねりやくこくぼたん]というのやその他の何種かであった。
そのほかに、魯文は、その当時の文人や画家たちの全部がそうであったように、金持ちの通人の取り巻きをして、それによって収入を得て生活した。後に『日日新聞』を起した作家山々亭有人(条野採菊)、後の黙阿弥の河竹新七、画家の河鍋暁斎や落合芳幾らと一緒に、魯文は細木香以などの金持の通人の遊びの相手をして狂歌や俳句を作り、芝居見物をし、小遣をもらい、また着物とか煙草入れのようなものをもらい、売女をあてがわれて、幇間と同じような生活をした。