「手術の決心 - 井上光貞」文春文庫 巻頭随筆3 から

 
 
 
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「手術の決心 - 井上光貞」文春文庫 巻頭随筆3 から

大平首相の逝去をめぐって、ひところ心臓病に天下の耳目があつまったが、わたくしは四年半ほど前、心筋梗塞にみまわれ、九死に一生を得た経験がある。
その夜、日本思想史大系の「律令」の編輯会議があり、食事のあと、急に寒い街路にでたのがいけなかったのだろう。ハイヤーに乗ると胃のあたりが苦しくなり、自宅の階段をのぼる力もないほどなのだ。ベッドでうつぶせにこらえていると眠りに入るのだが、また発作がおこってくるしまつであった。
長男の義兄の山田隆治さんが順天堂病院の消化器内科にいられるので、電話で指示を願うと、循環器内科の北村和夫教授の診断をあおげるように手配してくださった。翌朝、教授の診断と各種の検査をあおいだが、胃ではなくて、心筋梗塞なのであった。わたしはすぐに、C・C・U室に入れられ、絶対安静の生活がはじまった。
北村先生は手術が必要と判断されたようで、一、二日あと、心臓外科の鈴木章夫教授を病室に連れて来られ、井上さん、この人は、先生の授業をうけたそうですよ、と、教授を紹介された。鈴木さんは、わたくしが教養学部にいたころの理科の学生で、日本史の講義をうけられたようであった。医学部に進んだのちアメリカに留学し、アメリカの心臓外科を十何年が実地に学んで、帰って来られたばかりであった。
入院生活は比較的順調だったらしく、手術をするとしても体力が恢復してから、ということで四月末には退院した。そして一ヵ月ほど自宅で静養したあと、六月から大学にもでかけるようになった。ところが夏休みに妻とつれだち、祖父の井上馨の出生地、山口市の湯田に一泊したその夜、また心臓発作にみまわれてしまった。
すこし詳しく書くと、祖父は井上聞多といって長州藩に仕えていた。四国聨合艦隊の下関上陸のあと、高杉伊藤らと講和を主張して頑迷な攘夷派と対立していたが、ある夜、山口の政治党から湯田の自宅への帰路に、袖解[そでとけ]橋で斬られ、半死半生となった。わたくしたちは湯田の宿で食事をしたあと、散歩がてらにその袖解橋を訪れ、盆踊りでにぎわう山口市内を散歩してから寝についた。その夜、ふと眼がさめると、例の胃の部分のいたみにおそわれていたのであった。
帰京してさっそく診察をうけたのであったが北村先生らは、この再度の発作で、多少危険をおかしても、やはり手術を要すると判断されたようである。秋になると、カテーテルの検査のために何日間か入院したが、冠状動脈に二、三ヵ所、バイパスを施す必要があることが明白になった。
血をみても気もちが悪くなる小心の人間なので、心臓手術と聞くだけで気の遠くなるおもいであった。しかし考えてみると、細々と療病の生活をつづけていくだけでは、何とも生き甲斐のないことではあるまいか。還暦目前のじぶんの場合には死亡率も高いのだとおもったが、手術がもし無事にすめば、生き甲斐のある生活をもてるかもしれないのである。翌年早々、大学院で、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」などといいながら、手術の決意を披露した。
そう覚悟しながらも決心は鈍って、誰かとめてくれないかなどとおもったことも何度かあるが、けっきょく思いとどまった最後の動機は、鈴木教授が心臓手術の評判の名手である上に、かつての教え子であったということである。その人に手術してもらうならば、失敗して命を失っても、それでよいのだ、という安心感である。二月なかば、鈴木さんのチームの手術をうけたが、年齢が心臓手術に耐え得る限界であったためもあろう、十何時間の大手術で、家族はダメかと覚悟したようであった。しかしけっきょく九死に一生を得た。
バイパスをつけてもらったからといって、動脈硬化のすすむ体質から自由になったわけではなく、いつも死と向いあわせの生活を生きているのだとおもうが、それでも北村、鈴木両教授の指示に従いつつ、ある程度の社会生活と勉強をエンジョイできることは真に幸福といわなくはならない。それゆえ、助けて下さったいろいろの方々への感謝の念で毎日いっぱいなのである。
それでふとおもいおこすのは、祖父の生地の湯田で再発したことで、先生たちも、わたくしも、手術の決心がつき、けっきょくいまの幸福がもたらされたことである。とすると、祖父の霊がまず勇気をふるって手術をうけよ、とよびかけてくれたようにおもえてくる。
それはともかく、祖父は袖解橋で半死半生となった直後、美濃の西洋医で、奇兵隊に属していた所郁太郎の急場の荒療治をうけ、九死に一生を得た。それで祖父は、八十一歳でなくなるまで、じぶんのこんにちあるのは所さんのおかげだ、といっていたそうである。わたくしも祖父のひそみにならって、いのちを甦らせてくださった北村、鈴木の両国手に、あらためて満腔[まんこう]の感謝をささげる。