「品格について - 谷崎潤一郎」中公文庫 文章読本 から

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「品格について - 谷崎潤一郎」中公文庫 文章読本 から
 
 
 
品格と申しますのは、云い換えれば礼儀作法のことでありまして、仮に皆さんが大勢の人々の前に出て挨拶をされ、または演説をされる時には、それ相当の身だしなみを整え、言語動作を慎しまれるでありましょう。それと同様に、文章は公衆に向って話しかけるものでありますから、一定の品位を保ち、礼儀を守るべきであることは申すまでもありません。
然らば、文章の上で礼儀を保つにはいかにしたらよいかと云いますと、
一 饒舌を慎むこと
二 言葉使いを粗略にせぬこと
三 敬語や尊称を疎かにせぬこと
等であります。
もっとも、品位や礼儀と申すものは、もともと精神の発露でありまして、いかに外形を整えましたところが、精神が缺けておりましたなら何にもならないのみならず、却って偽善的な、いやらしい感じを与えるに過ぎません。たとえば人格の卑しい人間が口先だけで高尚がったことを申したり、お辞儀や立居振舞だけをしとやかにしたり致しましても、決して上品に見えないばかりか、そのためになお卑しさが眼立つようになる。ですから右に述べましたような条件は枝葉末節でありまして、品格ある文章を作りますにはまず何よりもそれにふさわしい精神を涵養[かんよう]することが第一でありますが、その精神とは何かと申しますと、優雅の心を体得することに帰着するのであります。
前に私は、第五十五頁より五十八頁にわたって国語と国民性との関係を述べました時に、われわれの国民性はおしゃべりでないこと、われわれは物事を内輪に見積り、十のものなら七か八しかないように自分も思い、人にも見せかける癖があること、そうしてそれは東洋人特有の内気な性質に由来するものであり、それをわれわれは謙譲の美徳に数えていると云うことを申しました。つきましては、ここで皆さんがもう一度あの言葉を思い出して頂きたいのでありますが、私の云う優雅の精神とは、このわれわれの内気な性質、東洋人の謙譲の徳と云うものと、何かしら深い繋がりがあるところのものを指すのであります。と云う意味は、西洋にも謙譲と云う道徳がないことはありますまいが、彼等は自己の尊厳を主張し、他を押し除けても己れの存在や特色を明らかにしようとする気風がある。従って運命に対し、自然や歴史の法則に対し、また、帝王とか、偉人とか、年長者とか、尊属とか云うものに対しても、われわれのように謙譲ではなく、度を超えると卑屈と考える、そこで、自己の思想や感情や観察等を述べるにあたっても、内にあるものを悉く外へさらけ出して己れの優越を示そうとし、そのために千言万語を費してなお足らないのを憂えるが如くでありますが、東洋人、日本人や支那人は昔からその反対でありました。われわれは運命に反抗しようとせず、それに順応するところに楽しみを求めた。自然に対しても柔順であるのみならず、それを友として愛着した。従って物質に対しても彼等のようには執着しなかった。またわれわれは己の分に安んじ、年齢の点で、智能の点で、社会的地位や閲歴の点で、少しでも自分に優っている人を敬慕した。そう云う風であるからして、なるべく古い習慣や伝統に則[のつと]り、古の聖賢や哲人の意見を規範とした。そうしてたまたま独特の考えを吐露する必要のある時でも、それを自分の考えとして発表せずに、古人の言に仮託するとか、先例や典拠を引用するとかして、出来るだけ、「己れ」を出し過ぎないように、「自分」と云うものを昔の偉い人たちの蔭に隠すようにした。ですからわれわれは口で話す時も文章を綴る時も、自分が思うことや見たことを洗い浚い云ってしまおうとせず、そこを幾分か曖昧に、わざと云い残すようにしましたので、われわれの言語や文章も、その習性に適するように発達した。で、優雅と申しますのは、このわれわれの、己れを空しうして天を敬い、自然を敬い、人を敬う謙遜な態度、それから発して己れの意志をのべることを控え目にする心持の現われでありまして、品格と云い、礼儀と云いますのも、結局はこの優雅の徳の一面に外ならないのであります。

然るに現代のわれわれは、祖先以来伝わって来たそう云う謙譲の精神や礼儀深い心構えを、次第に失いつつあります。それは西洋流の思想や物の考え方が輸入され、われわれの道徳観が一大変化を来たしたためでありまして、勿論それも、一概に悪いことだとは申せません。もしわれわれがいつまでも昔のような引っ込み思案でいましたならば、今日の時勢に取り残され、科学文明の世界において敗者となってしまうことは明らかでありますから、それを思えば、大いに進取活発な西洋人の気象を学ぶべきであります。が、前にも申しましたように、われわれの国民性とか言語の性質とか云うものは、長い歴史を有するものでありますから、なかなか一朝一夕を以て改良することはむずかしい、況んやそれを根こそぎ変えてしまうことなどは、到底不可能事でありまして、さような無理な企ては悪い結果を招くのみであります。それにまた、われわれの流儀にも自[おのずか]ら長所があり美点があることを忘れてはなりません。内輪とか控え目とか、謙遜とか云いますと、何か卑屈な、退嬰的な、弱々しい態度のように取られますけれども、西洋人は知らず、われわれの場合は、内輪な性格に真の勇気や、才能わ、知慧や胆力が宿るのである。つまりわれわれは、内に溢れるものがあればあるほど、却ってそれを引き締めるようにする。控え目と云うのは、内部が充実し、緊張しきった美しさなので、強い人ほどそう云う外貌を持つのである。さればわれわれの間では、弁舌や討論の技に長じた者に偉い人間は少いのでありまして、政治家でも、学者でも、軍人でも、藝術家でも、本当の実力を備えた人は大概寡言沈黙で、己れの材幹を常に奥深く隠しており、いよいよと云う時が来なければ妄りに外に現わさない。もし不幸にして時に会わず、人に知られず、世に埋れて一生を終るようなことがあっても、別段不平を云うのでもなく、或はその方が気楽でよいと思ったりする。このわれわれの国民性は、昔も今も変りはないのでありまして、現代でも、平素は西洋流の思想や文化が支配しているように見えますが、危急存亡の際にあたって、国家の運命を双肩に荷って立つ人々は、やはり古い東洋型の偉人に多いのであります。で、われわれは西洋人の長所を取って自分たちの短を補うことは結構でありますけれども、同時に父祖伝来の美徳、「良賈は深く蔵する」と云う奥床しい心根を捨ててはならないのであります。
話が大変横道に外れたようでありますが、文章の品格につきましてはその精神的要素を説きますのには、ここまで遡って論じなければならないのであります。ところで、ここで皆さんの御注意を喚起したいのは、われわれの国語には一つの見逃すことの出来ない特色があります。それは何かと申しますと、日本語は言葉が数が少く、語彙が貧弱であると云う缺点を有するにも拘らず、己れを卑下し、人を敬う云い方だけは、実に驚くほど種類が豊富でありまして、どこの国の国語に比べましても、遥かに複雑な発達を遂げております。たとえば一人称代名詞に、「わたし」「わたしくし」「私儀」「私共」「手前共」「僕」「小生」「迂生」「本官」「本職」「不肖」などと云う云い方があり、二人称に「あなた」「あなた様」「あなた様方」「あなた方」「君」「おぬし」「御身」「貴下」「貴殿」「貴兄」「大兄」「足下」「尊台」などと云う云い方がありますのは、総て自分と相手方との身分の相違、釣合を考え、その時々の場所柄に応ずる区別でありまして、名詞動詞助動詞等にも、かくの如きものが沢山ある。前に挙げました講義体、兵語体、口上体、会話体等の文体の相違も、やはりそう云う心づかいから起ったことでありまして、「である」と云うことを云いますのに、時に依り相手に依って「です」と云ったり、「であります」と云ったり、「でごさいます」、「でござります」と云ったりする、「する」と云うのにも「なさる」「される」「せられる」「遊ばず」等の云い方がある。「はい」と云う簡単な返辞一つですら、目上の人に対しては「へい」と云う。またわれわれは、「行幸」「行啓」「天覧」「台展」などと云う風に、上御一人を始め奉り高貴の御方々の御身分に応じて使うところの、特別な名詞動詞等を持っている。こう云うことは、外国語にも全然例がないのではありませんけれども、われわれの国語の如く、いろいろの品詞にわたって幾通りもの差別を設け、多種多様な云い方を工夫してあるものは、どこにもないでありましょう。今日でさえそうでありますから、昔は一層それらの差別がやかましかった。南北朝や、足利時代や、戦国時代などの如く、国中の綱紀が乱れ秩序が失われて、強い者勝ちの天下であった時節においても、百姓は武士に対し、武士は大名に対し、大名は公卿や将軍に対し、それぞれ適宜な敬語を用うることを怠らず、仮りにも粗暴な言葉使いをしていなかったことは、あの時代の軍記物語や文書等を見ましても明らかでありまして、いかに猛々しい武士といえども、そう云う作法を知らぬことを恥辱と心得ていたのであります。これらの事情を考えますと、われわれ日本人ほど礼節を重んじる国民はなく、従ってまた、国語もその国民性を反映し、それにしっかり結び着いていることが、分るのであります。