「「怒りの葡萄」とアメリカ的楽天主義 - 福永武彦」ちくま文庫文豪文士が愛した映画たち から

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「「怒りの葡萄」とアメリカ的楽天主義 - 福永武彦ちくま文庫文豪文士が愛した映画たち から

怒りの葡萄」は一九四〇年に製作された映画だから、今頃これを見れば、まず古くさいという印象が与えられる筈である。ところがそうではなかった。なぜか。答は簡単で、こういった種類のシリアスなアメリカ映画が、このところあまりにも少ないからである。つまり戦後のアメリカ映画は娯楽物の全盛で、大きな画面、美しい色つき、明るく愉しい目出たし目出たしという公式に沿って、おおむね作られている。貧しい人間の生活をじっくり描くのでは商売にならないと考えるのも無理はない。
怒りの葡萄」は、オクラホマの難民たちが、土地を追われてカリフォルニアへ移住し、そこでもまた苦労する話である。従って主題が人道主義的な共感を喚ぶ上に、描写もまた貧しい小作人たちの生活をなまなましく捉えている。資本主義の国を舞台に、社会主義の原理がやさしく説明されているという一面もある。身銭を切ってでも人に見せたくなるような映画と言える。それがつまり向こうの思う壺で、これは本来、立派な商業映画なのだ。一九三九年にジョン・スタインベックの発表した同名の小説がベストセラーになったので、いち早く映画化したものにすぎない。ただその時、監督やキャストが熱っぽいものを持っていたから、月並な文藝映画にはならなかったというまでである。とすれば、この映画でジョン・フォード監督がどんなに褒められても、原作者であるもう一人のジョンを抜きにしては語れないであろう。これはまあ文藝映画の宿命みたいなものと諦めてもらうほかはない。
こうした長篇小説の映画化が、筋を忠実に追うよりも視覚的な造型に主眼を置くのは当然のことで、僕はその意味で、主人公の一家が、故郷を後に、おんぼろトラックに鈴生りになりながら、西部に向って移住して行く途中の描写に、大いに感銘した。違った風景を背景に、違った道路標識を前景にして、トラックが走って行くのは、文学では表現できないものである。この部分を含めて、挿話を幾つも積み重ねて行くこのストーリイの芯になっているものは、アメリカ的な楽天主義ではあるまいかと思う。こんな暗い映画に楽天主義という言葉はそぐわないが、スタインベックもフォードも、より美しい世界を信じ、この不幸な一家の行手に、彼等の人民であることの強さを、その最後の勝利を確信しているように見受けられた。トラックがひた向きに走るねは、インディアンに追われて駅馬車が走るのと同じ開拓的精神の表れであり、とするて、トラックが何に追われているのか、その実体がもう少し描かれてもよかったような気がする。この映画の主題が、主役の息子とその母親との対話に、つまり母性愛の表現に懸っていて、宣教師の死の意味が少々はぐらかされている点なども、商業映画の弱さといったものであろうか。僕はこの映画より後に、たまたまテレヴィで、徳田秋声新藤兼人の文藝映画「縮図」を初めて見たが、同じ旧作でも、貧しさを描いている点ではこの方に一層打たれた。つまりはアメリカ的楽天主義より身近だったせいなのだろう。