1/2「病院にはなるべく行かない - 池田清彦」新潮文庫  他人と深く関わらずに生きるには から






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1/2「病院にはなるべく行かない - 池田清彦新潮文庫  他人と深く関わらずに生きるには から

現代人は体の具合が悪くなったら病院に行くのが当たり前と思っているようだが、ケガと感染症以外の病気は、病院に行ったからといって治るとは限らないし、かえってこじれてしまう場合もある。はっきり言って、病院に行こうと行くまいと、治るものは治るし、最新の医療を受けても万金を積んでも、治らないものは、治らない。
たとえば、鼻の奥がむずむずしてクシャミが出る。しばらくすると熱が出てくる。典型的な風邪である。病院へ行かなくても、薬を飲まなくても、安静にしていればほぼ百パーセント治る。医者に診てもらうのは、時間とお金のムダである。それでも必ず病院に行く人がいる。病院に行けば、必ず薬をくれる。やっぱり、薬を飲まなければ治らないんだ、と思ったら大間違いである。薬など飲まなくても治るとわかっていても、医者は薬を出すのである。薬を出さなければ、もうからないからである。もう少し医者寄りの言い方をすれば、薬を出さなければ病院が潰れてしまう。
薬というのは毒であるから、飲まないにこしたことはない。一昔前の良心的な町医者の中には、薬は飲まなくても大丈夫ですよ、と言って診察だけして帰してくれる人もいた。しかし、今のシステムではこういうやり方ではもうからない。診断だけして患者を安心させても医療費が取れないからだ。検査を沢山して薬も沢山出さなければ、もうからないようにできているのだ。飲む必要のない薬を飲めば体に悪い。だから、どうでもよい病気で医者に行くのは、時間と金と体の三つも損していることになる。
現代人はなぜこんなに病院が好きなのか。それは子供の時から、健康は正常でかけねなしの善であり、病気は異常で悪であると教えられるからである。どんなささいな異常でも直ちに治して正常にならないと気がすまない。かなりの人は、かなりの人はこういった健康原理教の信者になっているのではないかと私は思う。人間の体は自然物であるから、常に同じ状態のままコントロールできるわけではない。若い時は元気がいいが、年をとるにつれて体のあちこちにガタが来て、最後はにっちもさっちもいかなくなって死んでしまう。七十歳や八十歳になって、具合の悪い所は全くなく、二十歳や三十歳の時と同じように元気な人がいたとしたら、その人は健康かもしれないが異常であろう。健康と正常はパラレルではない。
風邪ような一過性の病気は、発病から治るまで、あるパターンのプロセスをとる。具合が悪い時に医者に行かずに家でじっと寝ていると、病気の経過が自分なりにわかる。何度か同じような経験をすれば、この具合の悪さは、寝てさえいれば治ると確信することができる。即病院に直行したり、病院に行かないまでもすぐに薬を飲んだりすると、病気の自然の経過を自分で経験することができない。ついには、病院に行ったり、薬を飲んだりしないと不安になってくる。幼稚園や小学校の時から国家のパターナリズム(おせっかい主義)と、医療資本にだまされて、健康強迫症にさせられてしまったのだ。
自分の体と一番長くつき合っているのはじぶんであり、自分の体のことは自分が一番よくわかっているはずなのに、自分の判断や感性を信じないで、医者の言うことを無闇に信じるのはおろかであろう。死ぬか生きるかの瀬戸際になった時、あるいは手術するかしないかの決断をせまられた時、自分のことは結局自分で決めるしかない。そのためにも、普段から自分の体を他人まかせにしないで、自分で判断するクセをつけておいた方がよいと思う。
国家というのは人々を管理したくて仕方がないらしい。国民に十一ケタの背番号を付けようなどという発想は、国家が好コントロール装置であるなによりの証拠である。この装置は病気の人を病院でコントロールするだけではあきたらずに、健康な人まで病院に送り込んでコントロールしようとしている。医療資本にとっても、もうけるチャンスが拡大するわけだから、渡りに舟である。かくして、予防医学あるいは健康診断という名の搾取が行われることになる。
自分では何の異常も感じないのに、健康診断に行く。四十歳もすぎれば、大抵の人は体にガタが来ている。血液検査をして、肺のレントゲンを撮って、胃カメラ飲んで、大腸がんの検査をして、内蔵のエコー検査をして、あげくは脳ドックまでやれば、すべて何でもありません、という人はむしろ稀であろう。多くの人はどこか悪いと言われ、コレステロール値を下げる薬をもらったり、血圧を下げる薬をもらったりして、時間とお金を使わされることになる。自覚症状がないのに、薬をのまされて不思議だとは思わないのだろうか。