「歴史の手触り - 安岡章太郎」文春文庫 巻頭随筆3から







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「歴史の手触り - 安岡章太郎」文春文庫 巻頭随筆3から

いま私は、自分の父方の家のことを或る雑誌に連載中なのだが、書き出したあとからいろいろな資料が出てくるので、整理がつかず困惑している。
勿論、資料といったって一般の歴史家が目をかがやかせるようなものではなく、要するに古い農家にのこった昔の書き付けだから、小作人からの農作物の受けとりや貸し付けの証文のようなものが大部分で、こういうものはよほど完全にそろったものでないと、何か書くためにはあまり役には立たない。それに手紙や日記の切れ端しなんかも混っているが、別段、史料的価値というほどのものではない。
ただ、そういう昔の書き付けを手にとって見ていると、何でもない文字の中から不意に古い時代が蘇ってくるような気がする。たとえば、
某月某日 サカヤキ致ス
というような簡単な一行があると、突然そこに自分の祖先の一人が坐って、俯向いて髪をすいたり、剃刀で頭のてっぺんを剃り上げたりしている有様が、何か心の触角にふれたように浮かんできてしまうのだ。
先日も、その家の倉の脇の奥座敷の壁紙の下に、慶応二年安岡権馬とした日記の貼ってあるのが見つかったという報らせが従兄からきたので、見せて貰いに行った。慶応二年は土佐では勤王党が完全に弾圧されて最も逼塞[ひつそく]していた時期で、父の家でも身内が一人、入牢させられていたし、権馬という人も勤王党に加っていたが、その頃は病気で寝ていたはずである。権馬はさだめし、不安と焦燥の日々を送っていたことであろう。もしかしたら、その日記には、そういう暗い時代の陰鬱な心境がつづられているのかもしれない。
しかし、そんなことよりも、じつはその倉の脇の奥座敷には、私の父母も終戦後一年余り寝起きしていたことがあり、その部屋の壁の中に、昔の人の日記が貼りこめられてあったということ自体、私には何か無関心ではいられないものがあった。北向きの中庭に面したその部屋に足を踏み入れるたびに私は、敗戦に打ちひしがれた父と母の老耄[ろうもう]した姿が想い出され、心を苛まれずにはいられないのである。いったいあの部屋の何処の壁にそんな日記が埋まっていたのだろう - ? いくら考えても、それは見当がつかなかった。
それはそのはずで、行ってみると、日記の貼りこめてあった壁というのは、昔の床の間であったところを納戸にしてふさいだ中のおくなのである。従兄は、納戸を整理しているうちに、剥げかかった壁紙の下から、その日記の表記の部分が覗いているのを見つけたわけであった。念のために経師屋にも来てもらったのだが、これなら簡単にわれわれの手でも剥がすことはできた。ただし壁紙の下の日記は直接土壁に貼られてあったので、これには赤茶けた壁土が分厚くこびりついており、その土を落すのに、一と苦労しなければならなかった。
せっかく経師屋を呼んであったので、ついでに、反対側の座敷の古い襖を十枚ほど貼りかえることにした。襖の貼りかえは勿論、専門家でなければできない。しかし、剥がす作業はわれわれが手伝うことにした。まず経師屋が、襖の枠を木槌で叩いてはずす。そのあとの襖紙を剥がすのは、私たちでやった。たぶん明治の十年代に、私たちの祖父がこの家に婿養子にやってきた頃に貼りかえられたかと思われるその襖は、古びて紙自体が脹らんだようになっている。枠の外骨にそって小刀を入れると、表の紙は簡単に剥がれて、なかから古い書き付けを何枚も貼り合せたのが分厚い層になって出てきた。
「おう。これは凄い」
私は思わず、声をあげた。古い糊の乾いた和紙は、裾の方から指先を入れると、バリバリと小気味良い音をたてながら、奇麗に剥がれて行く。なかには取っ手のついた部分から虫が入って、取っ手のまわりを二センチほどグルリと輪になって虫に食われたものもあったが、糊で密封された内部にはシミも這入りこむ隙きがないとみえて、虫食いの跡はまったくない。
それにしても、楮[こうぞ]を使った昔の和紙というのは何と丈夫につくられているものなのだろう。一枚の襖に半紙の和紙が何十枚となく貼り合せてあるのだが、指先きに力を入れて引っ張っても、まず裂れるということがない。剥がして行くうちに、古いものは「天明三年」などと年月日の入った手紙などもあるのだが、二百年も前に書かれたそんな書き付けが、まったく何の破損もなしに残っているのである。安岡広助とか安岡平八とか、六代前、七代前の当主の名宛の手紙や日記も、たいていは同じような和紙の半紙を縦半分に折って使ってあるのだが、そういう一枚一枚の紙を剥がして行くうちに、何か過去の時代の空気がすうっと鼻の先を通り抜けていくようで、私はだんだんそうした“過去”に酔わされているような気分になってきた。
はじめに言ったように、書き付けの大部分は土地や小作の台帖みたいなものだから、読んでも大して興味のもてるものはない。なかには習字の手習いに真っ黒く書きつぶしたものや、子供のいたずら書きのようなものさえ混っていた。しかし、一瞬ごとに“蒸発”して行く時代のにおいと、ギッシリと書きつけられた無数の文字の手触りとが、ほとんど生理的に歴史が肉迫してくるように、私には感じられたのである。
一枚の襖の表裏両面を剥がすのに一時間近くもかかったであろうか。途中で昼食のときに休んだほか、休みなしに作業をつづけたが、夕刻までに襖五枚ほどしか剥がせなかった。そして、その晩は腰と肩がひどく痛んだ。
ところで、最初の目当ての権馬の日記であるが、私たちが襖を剥がしている間、従姉がかかりっきりで壁土を落してくれたのを読むと、やはり大したことは書かれていそうもなかった。ただ、明治になって隣りの家で富永有隣を匿っている間、こちらの家で権馬を中心にいわゆる古勤王党の旧郷士たちが、まわり持ちで何度も会合をひらいている記録や、寄附金の名簿などが出てきたのは、一応の収穫といえるかもしれない。