2/2「 青春の日々(一部抜き書き)-植村直己」文春文庫 青春を山にかけて 植村直己 から

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2/2「 青春の日々(一部抜き書き)-植村直己」文春文庫 青春を山にかけて 植村直己 から

新人歓迎山行は、四月の下旬から五月上旬の一週間だった。
汽車を中央線の信濃四谷駅(現 白馬駅)でおり、バスで細野村へ進んだ。はじめて見るアルプスの連山は雪を残し、岩と雪のノコギリのようなするどい峰々がそびえていた。車窓から信濃の景色を見ているうちはまだ楽しかった。
一行は、新人は空身で、上級生はでかいザックを背負い、八方尾根にある山岳部の小屋に入った。小屋の裏には、白馬岳、杓子岳、鑓ガ岳の白馬三山がそびえ、登るにつれて信濃の山間の田んぼが見わたせる。シマ模様に残雪がある尾根の端にたおれかかったすすけた小屋・・・。また、「入部歓迎」の酒席も楽しかった。
山岳部に入ってよかったと思ったのはつかの間、翌日の白馬山行がはじまると、私の胸は後悔でうちひしがれた。新人は三、四十キロのザックを背負わされ、上級生のかけ声とともに登山が開始されたのだ。細野から二股を経て猿倉へ。ここは車道があり、登りもゆるやかでまだよかった。私は小さいときから百姓仕事で鍛えている。
しかし、三、四十キロの荷はだんだんこたえてきた。四月末なのに、噴水のように汗がふき出し、顔はもちろん、下着までびっしょり濡れてきた。上級生は一時間もノンストップで歩かせる。かけ声、それにちょっとでも列から遅れようものなら怒号だ。きのうまで山を見て楽しんだのに、もう景色を見る余裕もない。上級生は入部のときは仏だったのにもう鬼だ。怒号に追われて黙々と歩く。二時間、三時間・・・。雪路にかわったとたん、足を滑らせてひっくり返ると、
「ウエムラ、何をひっくり返る」
「バカもん!」
とどなられる。隊から遅れると、ピッケルの柄でシリを、足を打たれる。上級生は野獣のように恐ろしかった。新人は数十名いたが、その中でいちばん小柄でいちばん弱い私が最初にばてた。そのうえ、雪の上に設営したテントでも、炊事と雑用でくつろぐ暇がなかった。新人はテントのすぐ入口に寝かされ、上級生の靴の雪おとしまでやらねばならなかった。
いいぞいいぞと おだてられ
死にものぐるいで きてみれば
朝から晩まで 飯たきで
景色なんぞ 夢のうち
その夜、私はダンチョネ節で新人哀歌を教えられ、泣く思いで歌わされた。
雪上のトレーニングは上下、トラバース(横断)と、足が上がらなくなるまでやらされた。”滑落停止”では、急斜面を上級生の号令のもとすべり落ち、シリが出ている、形がわるい、にぶい、など、またピッケルでくり返しシリを叩かれた。私はそのころナダレなどの遭難より、訓練合宿の方がよほど恐ろしかった。他の新人よりも経験と体力の劣っていた私は、へたをすると殺されてしまうんではないかとさえ思った。
もう山岳部なんかやめようか・・・・・。しかし、赤木さんの、
「合宿の厳しさで途中退部するなんて人間のクズだ」
という言葉が耳に残った。退部もできない。部を続けていくには自分の体力をつくるより方法はないと思った。
合宿山行が終ると、私は川崎市柿生の下宿先のお寺で、毎朝トレーニングをはじめた。朝六時に起き、九キロばかりの山道を走りまわるのだ。二十人ばかりいた新人も合宿山行ごとに二人かけ、三人減りして二年部員になったときにはとうとう五人になってしまった。もちろん私も残った五人のひとりだ。
一年部員のときは体力的に苦しかった。二年、三年部員になり、教えられる立場から教える立場になると、自分の山の知識が未熟なので精神的に苦しんだ。やがて、山に対して自分なりの考えも定まってきた。一年に七つも合宿山行をやり、合宿だけで百日以上山に入り、そのうえ個人山行を入れると百二、三十日も私は山の中に入っていた。学業どころではない。

北海道から東北、日本アルプスと山に明け暮れ、やがてわたしなりに登山への視野がひらけて、外国の山に登りたいと思うようになった。二年の終わりころから外国の山岳書を読みはじめ、ガストン・レビュファ著の『星と嵐』(近藤等訳)でつよくアルプスの魅力にひきつけられた。自分の山行にも自信が出てきた。
最上級生でサブリーダーになったとき、私は単独山行を試みた。黒四ダムから黒部渓谷の阿曾原峠を経て、北仙人尾根の頭の出、剣岳の北側ににある池ノ平から剣沢をめがけて下り、黒部別山にのびるハシゴ谷乗越しに出て真砂尾根をつめ、そのピーク(真砂岳)から地獄谷をめがけて下り、弥陀ガ原を経て、千寿ガ原に下った。奥大日岳から剣岳をやった合宿山行の帰りのことで、食糧は合宿の残りもので間にあわせた。テントなし、スコップひとつで雪洞生活五日の行程だった。この山行は、自分がリーダーとして人の上に立つための試練と考えた。
私の単独山行は、外国に出てからはじまったものではない。新人の夏山行の前に、上級生の目をぬすんでひとりでトレーニングに富士山に登ったこともあった。
私を外国の山にかりたててくれたのは、同僚の小林正尚だった。彼は私が「アマゾン下り」に挑んでいるとき、同級生の結婚式へ行く途中、交通事故で死んだ。彼は大学四年の夏山行のあとアラスカに飛んで氷河の山を楽しんで帰ってきた。日本では氷河が見られないから、彼が得意になって話す旅の様子は私をうらやましがらせ、ライバル意識を燃え立たせた。卒業してからの就職なんてどうなってもいい、せめて一度でもいいから外国の山に登りたかった。それが自分にとってもっとも幸せな道だと思った。