(巻二十九)不器用も器用も一生去年今年(榎本木作)

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(巻二十九)不器用も器用も一生去年今年(榎本木作)

5月8日土曜日

4部屋の掃除機掛け、台所換気扇のフィルター交換、洗濯とこなして昼食の準備など致して午前を終わる。

午後の散歩は図書館と生協での買い物にした。図書館では予約してあった4冊をお借り致した。うち1冊が『唯脳論養老孟司』である。帰宅して挑戦してみたが、到底理解できる書物ではなかった。ではあったがその中の「心身論と唯脳論」という節の一編〔心は脳から生じるか〕のうちの一部は僅かに解ったような気がする。以前、中島義道氏の『〈こころ〉とは何か』を読んで“そうだよな”と思っていたが、その対論としてこの論を読むことになった。そして読めば、“そうだよな”とこちらに納得してしまう。

本日は三千三百歩で階段は2回でした。

願い事-叶えてください。

生命は脳に棲むらし鶏頭花(小野寺英子)

「からだで味わう動物と情報を味わう人間 - 伏木享」03年版ベスト・エッセイ集 から

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「からだで味わう動物と情報を味わう人間 - 伏木享」03年版ベスト・エッセイ集 から

おいしさといえば、もちろん舌の感覚だが、のどごしなんて言葉もあるから咽頭あたりの感覚まで含まれる。温度も重要である。大阪名物のたこ焼きはやけどするほど熱くなくてはおいしくないし、渇きを癒すビールはよく冷えていなければいけない。
おいしさには鼻へ抜ける風味も大切だ。鼻をつまむと味が変わるばかりでなく、何を食べているのかわからなくなるものも多い。ぱりっとした漬け物の噛みごたえは歯ぐきへの衝撃で、これもおいしい。弾力のあるスパゲティが口の中で暴れるおいしさは口の中全体の物理的感触である。口の中の多くの感覚機能が、おいしさの解析に動員されている。
これだけでも、味わうというのはなかなか大層なことだと思わせるが、実はもっとダイナミックで複雑なものであることが明らかになってきた。おいしさは、からだでも味わっているのである。
もちろん、指先をスープにつっこんでおいしさを感じるなどという意味ではない。食べ物が消化吸収され、代謝される頃にはその栄養価値が明らかになる。栄養素のバランスやカロリーなども情報となって脳に伝えられ、おいしさの判断や記憶に大きな影響を与えるのである。栄養価値の高いものをおいしく感じる。このおいしさは食べるという行為の本質に関わるものである。

おいしいのにカロリーがない脂肪を開発したい。菓子や食品企業の研究者の夢である。脂肪はコクがあって旨いが、カロリーが高いのが玉にキズである。カロリーなんか全く気にせず思う存分チョコレートやクリームを食べてみたい、と密かに願っている人は多いだろうけれどやっぱり無茶はできない。全くカロリーがなくてしかもおいしい脂肪が作れたら爆発的に売れるに違いない。それほど、切実な問題である。
世間には、カロリー半分以下のマヨネーズ(JAS規格ではマヨネーズとは呼ばない)やドレッシングなどが売られている。カロリーを低く抑えるのにはいろいろなテクニックがあるが、脂肪とよく似た食感の多糖類などで増量することによってカロリーが削減されている場合が多い。結構、おいしくて満足感がある。しかし、これとてカロリーがゼロというわけではない、半分である。欲張りな人はまだ満足していない。
食品中の脂肪は脂肪酸という分子が三つグリセロール分子に結合したものである。小腸の中でこの結合が切断されてから体内に吸収される。結合が切れなければ吸収されないからカロリーはない。ゼロである。この夢のような素材は実は米国の食品会社によって開発されている。米国の一部の州では、ポテトチップスなどの形で試験販売されている。少し前に、これを輸入して食べてみたが、普通のポテトチップスと変わらない。脂溶性のビタミンを排泄してしまうことなどが指摘されているが、味の面ではうまくできている。
これとよく似た原理で試作された別の脂肪が手に入った。見た目は普通の油である。熱にも安定で、天ぷらもフライもうまく揚げられる。実験動物は、この試作品の油を最初喜んで食べた。市販のコーン油と比較しても実験動物の嗜好性には差が見られないほどよくできている。しかし、三〇分を過ぎる頃から事情が変わってきた。実験動物が次第にこの油を好まなくなったのである。それからは動物はコーン油ばかりに群がって、試作品の油を選ぶことはなかった。わずか三〇分で見破られてしまったのである。からだもおいしさを感じていると悟ったのは、この実験の結果であった。

動物実験で三〇分というのは、深い意味のある時間である。油を摂取して三〇分ほど経つと、脂肪は消化吸収され、からだの中でエネルギーに変わる。ここで、おそらく内蔵からネガティブな信号が出たのである。油としてはおいしいけれど、エネルギーにならないぞ、という情報が、一挙に実験動物の嗜好性を失わせたと考えられる。舌は騙せても、からだには嘘はつけない。
動物は本来、脂肪に対して執着する。モルヒネなどの依存性のあるドラッグと同じメカニズムで本能の快感を生じ、もっと食べたいという執着を抱くことが明らかになっている。おいしさの快感はβエンドルフィン、もっと食べたいという欲求はドーパミンが主に関係することも明らかになっている。
同じ方法で実験すると、この試作品に動物は執着の行動を示さなかった。本能はこの油に執着することを許さなかったのである。理由は一つ、食べてもカロリーがないものは役に立たない、こんなものに執着するとカロリーが不足して命が危ない、である。シビアというかドライというべきか、動物の選択には迷いがない。食べることは動物にとっては一大事である。彼らの食行動は本能に忠実で、食の選択は必要な栄養素の獲得にとって有利な方向に限られる。動物にとってはノンカロリーなんてとんでもない食品なのである。栄養価値のない食物に騙される動物は、厳しい生存競争の過程でとっくに死に絶えているであろう?少なくとも実験動物にはカロリーのない油に執着する余裕はない。
カロリーさえ補ってやれば執着は復活した。例の試作品の油を口に入れて、同時に胃の中に市販のコーン油を投与すると、今度は試作品に対する執着が起こったのである。胃の中のコーン油が吸収されてカロリーを補給したのだが、動物はそんなことは知らない。もっとも、口の中に何を入れてもカロリーさえ高ければ執着するかというとそうでもない。苦味のある物質では、同時に胃の中に油を入れても執着しない。好ましい味は必要である。

この結果は、おいしさという概念の見直しを迫るものである。おいしさは確かに口の中で感じられる。味覚だけでなくて、多くの感覚が総動員されて、安全で納得のできるものを食べようとすることは冒頭に述べたとおりである。しかし、その後でからだから栄養価の情報が追加される。口の中と吸収されてからの少なくとも二種類の信号が脳ですり合わされる。味覚の判断と栄養の判断とが合意に達しないと、おいしいと記憶されることはないのである。からだもおいしさを主張する。
味の情報と、カロリーがないぞという内蔵からのネガティブな情報には時差がある。消化吸収に要する時間である。こんなに時差があってもすり合わせが起こるのは不思議である。動物はかなり用心深い。舌からの味覚情報は、短期記憶として一時的に保存され、内蔵からの情報を待つと想像される。脳内には、舌からの神経と内蔵からの神経が非常に近くを走行する部位があるので、この近くの脳部位ですり合わせが行われるのかも知れない。この結果が食経験の記憶ファイルとして脳に保存される。
どのような形で、味覚の修正が行われるのかは、まだ明らかではないが、カロリーのない油を使った食品は、二度目には最初の感激がないのかも知れない。あるいは、すぐに飽きが来るのかも知れない。

動物としての機能は人間にも残っている。全くカロリーのない油は人間にもやはり受け入れられないかも知れない。からだが「まずい」と拒否する可能性がある。
しかし、幸か不幸か人間は動物ほど純粋ではない。人間は、からだによる味覚や栄養価値の判断の他に新たな手段を持ったのである。それは、情報の活用である。
動物には拒否されても、ノンカロリーはいわゆるダイエットしている人には好ましい。このような特殊な機能が情報として頭から入った場合、人間は葛藤する。おいしいものも食べたいけれど美容や健康も捨てがたい。動物には決して見られない人間の特徴である。人間の大脳は多様な情報処理のために巨大に肥大してきたと考える人もいる。
人間には味や栄養効果以外に情報による高度な判断基準があるから、味や栄養で総てが決まるわけではない。まずくても健康増進に良さそうなら平気で食べ続けることもできる。「まずいっ、もう一杯」という有名なCMはこの間の事情を端的に語っている。安全や健康・栄養といった情報は、本来は味覚による判断を補助するために獲得されたものである。しかし、情報は爆発的に進化した。スーパーから買ってきた食品のパックに書かれている文字情報のおかげで、中身をいちいち真剣に味見して安全性を確かめなくてすむ。安全は大いに高まったが、その結果として逆に味覚は鈍くなったということもできる。

情報の発達と味覚の後退は、人間の食生活に大きな影響を及ぼしている。食品の受容性にとって情報はあくまで予備知識や事前調査の役割を果たすもので、最終的には食べることによって確認されるはずであった。しかし、味覚は進化した情報に追いつかない。ブランドの食材だといわれれば妙に納得してしまう。ワインのように最初に情報があって、味覚がそれを学習するという動物としては本末転倒も随所に見られる。昨今、食品の表示に皆が異常な関心を持つのも、自分の舌に自信がないうしろめたさの現れかも知れない。
うまいかまずいかよりも、太らないというフレーズが人間には有効である。おいしいステーキやチョコレートよりも、情報がもっとおいしい。人間とは奇妙な動物である。

 

(巻二十九)わが旅も家路をさしぬ都鳥(下村梅子)

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(巻二十九)わが旅も家路をさしぬ都鳥(下村梅子)

5月7日金曜日

昼頃戻ってきた細君に拠れば連休明けのクリニックは客を追い返すほど混んでいたらしい。明日も混むらしいので明日に予定していた血圧検診は月曜日に延期しよう。

午後の散歩は駅前まで脚を延ばした。喫煙場の側を通ったが、吸いたい気持ちも起きず通り過ぎることができた。

露の世の酒と煙草を断つ余生(赤川静帆)

積極的に断つと云うわけではなく、呑みたい吸いたいという気持ちが消えてしまった。

片道はバスのお世話になったので本日は三千九百歩で階段は2回でした。

願い事-叶えてください。オメオメと医者に通っておりますが、叶えてください。

荷風は戦前はよく医者通いをしていたが、戦後は勧められても医者に行かなかった。死に急いでいたわけではないようだが、どこかで歯車が切り替わったのだろう。

一枚の落葉となりて昏睡す(野見山朱鳥)

生命だから終わりが来るときは来る。それでよい。死にたいわけではないし、死は怖いが、どうしても生きていたいという強い思いはない。身体が不自由になり、精神的には鬱と不安に苛まれながら厄介者として二年三年と生きていたくはない。それを避けられるなら今でもいいと思っている。

うかうかと生きて霜夜の蟋蟀(二柳)

死に方についての希望はないが苦しみたくはない。病死であろうが、事故死であろうが、苦しみが短く少ない死が願いだ。死ぬときは安楽が尊厳に優先だ。

即死ゆえ苦痛なかりし人と言ふ

死にしことなき者はかく言ふ(高野公彦)

死んでしまえば、

死後などはなし凍裂の岳樺(高野ムツオ)

「葱肥えたり - 神吉拓郎」ちくま文庫 たべもの芳名録 から

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「葱肥えたり - 神吉拓郎ちくま文庫 たべもの芳名録 から

霜のたよりがあった。
葱が肥え、甘くなってきた。
ネギ。
一名を、ひともじ。
その、ひともじの謂[い]われについて、私は長いこと騙されていた。
騙されたというより、担[かつ]がれたといった方が近いか。
「なぜ、ひともじというか。それはだな、こういう風に、根の方を持って、逆さにぶら下げて見ると、ホレ......」
担いだのは、農家の男である。
「ホレ、人の字だろうが......」
なるほど、ネギを逆さに下げると、途中から分かれた葉の具合で、ぜんたいが、長っ細い人の字の形に見える。
「しかし、余分な葉がついてるね」
「そんなことは、気にしない、気にしない」
彼のいう通りに、あまり細部にこだわらなければ、確かにねぎは人文字であった。
此の頃、テレビのなんとかショウで、[幽霊が映っている写真]などというのが仰々しく紹介されたりするけれども、人間はどうも自分の目に見えるものを、とかく頼りたがるものらしい。万事、一見に如[し]かずというたとえがある上に、見たものは無理矢理納得してしまおうとする通弊があるようで、私もその例に洩れなかったわけである。
長いこと、それを信じていたが、実は、そうではないらしいが最近になって解った。
葱という字は、元来〔き〕と読む。臭いもの、という意味だそうである。一字だからひともじと呼ばれたので、一文字である、ということらしい。単純明瞭、あっけなさ過ぎて、左様で御座居ますかと白けたくなる。が、一方、はっきりと、これが結論、という気がした。
葱に加えて、白菜、蕪、大根の、この四白が揃うと、いよいよ、冬ここに在りの感が深くなる。
いったいに、日本の家庭料理、特に冬のものには、白の取り合わせが利[き]いている。豆腐や、カマボコはんぺんの類も白である。すき焼き、ちり鍋、寄せ鍋、水たき、と、どう名前が変っても、なにか白を配して、色彩を軽く、もたれないように按配してある。これは必ずしも意図的なものではないかも知れないが、文字通り淡白好みの日本人の気持に叶っていることは確かなようだ。
たとえば、戦前の庶民の喰いものの代表に鱈ちりなんてものがあるが、あんな真っ白けな料理を食べている人種は、世界中でも日本人だけではないかと思う。ホワイト・シチューとか、クラム・チャウダーなどはいくらか近いかも知れないが、清浄感という点では、かなりへだたりがある。
私は東京に育ったせいで、関西の葉葱の、あの青さに、なかなか馴染めなくて、うまいとは思うものの、やはり、葱を食べるとなると、関東の根深(深葱)がいい、青いところはなんとなく敬遠したい気味がある。棄てるところだという頭がある。そのくせ、あさつきやわけぎは喜んで食べるのだが、それは細くて柔かいからという言い訳がつくからである。
昨夜はすき焼きだった。私のウチのすき焼きの煮方は、やや関西風で、割り下を使わずに、煮汁を少くして肉と葱を交互に焼いて行くというやり方だが、葱は着実にウマ味を増しているようだった。

葱の匂いを嗅ぐと、栄ちゃんを思い出す。
栄ちゃんの本名は、矢島栄次郎といって、元フライ級のプロ・ボクサーだった。戦後ダド・マリノから選手権を奪って、日本人で初の世界チャンピオンになった白井義男より少々先輩で、たいへんうまいボクサーとして定評のあった人だ。
「白井とは、一勝二敗だったかしらん」
と、栄ちゃんはいっていた。
知り合ったのは、戦後間もなくのことで、栄ちゃんが、いっときやっていたボクシングの地方巡業んやめて、小さな焼鳥屋を、下北沢で開いた頃である。
栄ちゃんが店に立ち、初々しいおかみさんが手伝って、店にはいつも活気があった。栄ちゃんは顔が広かったから、ヨシズで囲った、屋台に毛の生えたほどの店に、いつも人があふれ、客筋も多彩であった。
最近なくなった映画俳優佐野周二さんをはじめ、映画関係の客も多く、まだ映画界へ入ったばかりの高島忠夫君の姿も見かけたことがある。古い銀座を知っている人にはお馴染みの花売りの巨漢ジョニーが、ぬっとノレンから顔を出したり、当時売り出しの暴力団銀座警察の顔ききだったキンちゃんが仕立おろしの白背広で颯爽[さっそう]と現れたりする。
その頃の、下北沢という町は、なかなか面白かった。
茶店や飲み屋で知り合った私のつき合いの範囲にも、韓国人のヤミ屋、北海道の大牧場のドラ息子、米国兵のオンリー、在外銀行の元頭取、元参謀、麻雀師など、さまざまな人物がいて、それぞれ、自分の生活に没頭していた。
戦火をまぬがれた町、しかも住宅地だっただけに、たとえば新宿のヤミ市などと較べて、人気[じんき]も穏やかで、どこか、昔の郊外住宅地の、のんびりした気分がまだ残っていた。
私は、そうした雑多な人たちに混っているのが好きだった。丁度ハタチになるやならずの年頃だったが、ラジオの脚本料や雑誌の原稿料をいくらか貰えるようになっていた。
その頃には、まだ、横光利一とか中山義秀萩原朔太郎などという人たちにゆかりの深い喫茶店も残っていた。私はその喫茶店に入り浸っと、日がなコーヒーを飲み、シャンソンを聞いた。
〔ロリガン〕という、その店のレコードでは、シャンソンが、いちばん揃っていて、ダミア、ティノ・ロッシュなどがふんだんに聞けた。
イヴォンヌ・ジョルジュの印象も強い。ダミアのコレクションを聞いていると、半日はつぶれてしまう。そして、暗くなると、そこを出て、栄ちゃんの焼鳥屋へ移動する。
焼鳥屋といっても、栄ちゃんの店のは、ヤキトンだし、値段も安い、だから毎晩でも行けるのである。
或る日、栄ちゃんを誘って球でも撞[つ]きに行こうと思って、早い時間に行くと、奥でまだ下拵[したごしら]えをやっていた。
栄ちゃんとおかみさんと婆さんが車座になって、葱の山と切り分けたタネを前に、せっせと串に刺す作業をしている。
それが済む迄は、主人としても、出るに出られない。
「すみません。ちょっと待ってね」
と、栄ちゃんは、にやにや笑って、そっと目くばせして見せた。
待っているのも退屈だし、刺している手もとを眺めていると、なんだか面白そうでもある。
そこで、面白半分に手伝ってみたねだが。どうしてこれがなかなか難しい。
ヤキトンのタネは、ご存じのように多種多様である。レバ、タン、ハツ、シロ、コブクロ、軟骨、カシラ、ガツ、ハラミなど、やってみると、それぞれ要領が違う。大きいのはひと串に三切れ、小さいのは四切れなどと按配しながら、間に葱を挟んで行くのだが、軟骨を刺すのは、やっぱり骨が折れる。骨片と肉が微妙に入り混っていて、串の先が滑るし、うっかり力を入れると、指を刺しそうになる。シロ(腸)は形を整えるのが難しく、ハツは、意外に串が入り難い。
何本かやっているうちに、すこしばかり要領は飲みこんだが、指先が痛くなって参った。
「結構難しいもんでしょう」
と、栄ちゃんは笑っていた。

その栄ちゃんの店で、毎晩十本くらいのヤキトンを食べるのが日課で、店が閉まると、彼と連れ立って、毎夜屋台を出しているラーメンを食べに行く。
いかつい顔をしたラーメン屋は、見かけに寄らない好人物で、作る手際は無骨だが、ウマいラーメンを喰わせるので評判だった。
当時、すぐ近くの細いドブ川の上に板を渡して、その上に店を乗っけた奇妙なラーメン屋があった。
ドブ川は、誰の所有地でもなかったし、使った湯水を棄てるのにも気兼ねはいらないし、うまい所に目をつけたものである。丸い目をした婆さんがやっていて、ここのラーメンもファンが多かった。
「どちらかといえば、婆さんの方がウマいと思うんだけど......」
と、いいながら、栄ちゃんは、私をいつも、屋台の男の方に誘った。どうやら、その男の人柄が気に入っているらしかった。
まだ世の中が落ちつかない頃だったから、喧嘩沙汰もしょっちゅうだった。
或る晩おそく、栄ちゃんと私が並んで、その屋台のラーメンを喰っていると、酔っ払った学生がやってきた。図体の大きい奴で、険悪な顔をしていた。なにが気に入らないのか、ひどく荒れていて、ラーメン屋に喰ってかかった。そのうちに、手で屋台の上を払ったので、私たちの食べかけの丼は地面に落ちて、惨状を呈した。
栄ちゃんが文句をいうと、その学生は、手を伸ばして、彼の胸倉を取りにかかった。栄ちゃんはフライ級の選手だから、小男の部類に属する。その学生は、なに程のことやあると思ったらしい。腕自慢であったのかも知れない。
引き寄せられとする瞬間に、栄ちゃんは、その力を利用するような具合に、右のパンチを打った。
全く、あっという間の出来事である。
大男はゆっくりと仰むきに倒れた。頭を打ったかなと思ったが幸いそうではなかった。
全身が痺れて、動けないのである。
元プロのボクサーの、しかも素手のパンチを急所に受けたらどうなるか、私は初めてそれを見て、これはいけないと思った。喧嘩をする時には、よくよく相手を見極めた上でないと危い。アゴの先端を狙ったのだが、そのパンチの速さ、正確さ、申し分がなかった。栄ちゃんが、元ボクサーの片鱗を見せたのは、あとにも先にも、その一度だけだったが、その印象は、実に目が覚めるようなものだった。 

それだけ毎晩、ヤキトンを喰っていながら、同じ串に刺さっている葱の方は、ついぞウマいと思ったことがなかった。どうしても焼き過ぎになってしまうからだろう。
レバとかタンとかがいい加減に焼けた頃には、葱はもう黒く焦げて、ぱさぱさになってしまっている。
葱は葱だけの串でないと、ウマくは喰えないんじゃないか。
いつか、栄ちゃんにそういったら、
「そうかなあ」
と、考えていたが、その栄ちゃんも、伝え聞いたところでは、先年、物故者の数に入ってしまったという。

東京を出て、北へ、近県に車で出かけたとき、帰りに葱を売っている店を見つけると、やはり買いたくなる。
泥葱を一把二把と買って、後のトランクに入れてくる。
以前、庭のある家に住んでいたときには、いくらでも裏庭に囲っておくことが出来たが、今はマンション住いだから、せいぜい一把がいいところだ。
料理のなかに取合せることもするが、見るからにいい葱があるときは、葱だけ焼くこともある。
フライパンにサラダ油を軽く敷いておいて、ざくざくと適当な長さに切ったやつを焼く。ごく強火で、手早く焼いて、醤油と七味唐辛子で食べると、なかから、あつあつの葱が飛び出してきて、舌を焼く。俗にいう鉄砲というやつである。手早くやるのが身上で、これなら葱が乾いたり萎[じぼ]んだりしない。
もう一つは、細かく刻んだ水々しいやつと、ふわふわにかいた鰹節を合せて、炊き立ての御飯に乗せて、醤油を落して食べる。もみ海苔や七味も試してみたが、これはなくもがなで、葱と鰹節だけがいちばん良いようだ。うちうちで、〔ネギカツ〕と称するのだが、ウマ過ぎて、つい御飯を食べ過ぎる恐れがある。
茹でた葱を、フレンチ・ドレッシングで食べるというサラダ風もあるが、これはやはりポアロ(ポロ葱)には及ばず、〔ぬた〕も、わけぎに如[し]くはなしの感がある。
すき焼きや湯豆腐、鍋一般のほかに、特に、葱を欠かせないものといったら、納豆と、鰯のツミレ汁だろう。ネブカ汁もそうだが、納豆やツミレや味噌と、この葱の取り合わせの妙に、しみじみと舌鼓を打てるのは、日本に生れたものの特権といってもよさそうだ。  
葱肥えたり、そして、冬はここに在る。

 

 

(巻二十九)黙々と襷の走者息白し(伊藤典子)

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(巻二十九)黙々と襷の走者息白し(伊藤典子)

5月6日木曜日

ベランダから手を出して雨があがっているかを確めて、細君は生協に出かけて行った。

二階より手を出してみる春の雨(溝渕弘志)

午後の散歩は連光寺さまへの月詣りと致した。本日は三千百歩で階段は2回でした。

願い事-叶えてください。後悔も何も、そんなものは無かったことにしたい。そんなものは無かったことになるからこれは願いが叶う。

(巻二十九)爪汚す仕事を知らず菊膾(小川軽舟)

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(巻二十九)爪汚す仕事を知らず菊膾(小川軽舟)

5月5日水曜日

天気の悪い日に洗濯日が巡ってくる。部屋干しにした。

雨が降りだす前にと昼食後すぐに生協まで買い物に出かけた。雨粒の落ち始めたところを逃げ帰り千四百歩でした。

昼寝時々家事で豚と玉葱の醤油焼き、と言うか生姜焼きの生姜抜きだな。それを作った。砂糖大さじ1みりん大さじ2醤油大さじ2で、家中醤油の匂いになる。新玉だからどんなにむごいことをしても美味しい。

願い事-叶えてください。軽舟氏とはレベルが違うが、頭では食えず、手先は不器用で、体格も貧弱だから、それしか道はなかったと思う。資質は乏しかったがここまで来た。

本当は運のいいだけ目刺焼く(梅原昭男)

(巻二十九)夕立や樹下石上の小役人(小林一茶)

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(巻二十九)夕立や樹下石上の小役人(小林一茶)

5月4日火曜日

家事の少ない午前中でした。細君は生協へ出かけ、菖蒲も買ってきた。

サトイモ科あやめ科菖蒲混乱す(矢島三栄代)

午後、近所の生協とドラッグストアにはニュー・ビーズ(洗濯洗剤)がないのでスギ薬局まで買いに行った。衣類の洗剤は粉体から液体が主流になって久しい。ここの店も殆ど液体だ。

途中で鯉のぼりを仰ぐ。

厨事-夕食に親子丼を作る。砂糖大さじ1、みりん大さじ1、醤油大さじ2と書いてあるが、醤油は入れすぎだな。

春愁の男厨の演歌かな(宮利男)

本日は三千五百歩で階段は2回でした。

願い事-叶えてください。

鯉幟影のじたばたしていたり(山田真砂年)

死ぬと云われればジタバタするだろうなあ。生きているのも息苦しく重苦しいが。