2/3「ラブミー農場の四季 - 深沢七郎」文春文庫 余禄の人生 から

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2/3「ラブミー農場の四季 - 深沢七郎」文春文庫 余禄の人生 から
 
こんなふうに私の畑の花の名を並べると、なんとなく花栽培業のように思われるが、実際には畑の中に、ポツン、ポツンと、ときどきのその季節に咲くだけである。畑の花というものになってしまうのだろう。雑草の中に咲く花たちは、いつか、畑の中の一員となっているのだ。私も、畑の中に生きているだけだが、物ごし、言葉づかい、皮膚の色もいつか百姓になっているのではないだろうか。ガンコな百姓ジジイに私はいまなっている。ほんとは、これはスバラしいことなのだが、ラブミー農場は都会人も来るのだから、都会の人はまごついてしまうだろう。百姓の強さは人間たちを怖れない、唯我独尊でいられることだろう。大げさに言えば五反百姓でも一国一城のあるじという気モチかもしれない。
私の畑の花たちはほとんど偶然のように手に入ったもので、求めたのは花菖蒲ほか僅かだ。たいがい「いいですねえ、うちでも植えたいですね」などと言って貰った花の根わけなのだ。梅や桃やブドーの苗は買い入れたものだが、これは農業のつもりだった。自分の食料用しか栽培しないのに農業などとは、まことにつごうのよい言葉だと思う。ブドーは、山梨の生まれなのだが、なかなかよい実が成らない。消毒も、袋もかけないでただ実るのを食べるだけである。ブドーの花は綿ボコリの房みたいなものだが、甘い匂いがブドーの花の咲いたのを知らせるようだ。
さて、野菜たちの花々は、春になると一せいに咲きだす。菜の花の咲くのは食べきれなかったからで、ダイコン、ニンジン、ネギ坊主まで、花が咲くと食べられなくなる。だからその頃の野菜不足に間にあうように二月ごろ時無大根などをまく、これも早春がすぎて暖かくなるころは花が咲いてしまう。
春の野菜は赤いエンドーの花がキレイだ。白い花のエンドーはつるがのびるので添木を立てなければならないが、赤花エンドーはつるなしなので始末がいい。スイートピーは花エンドーだから実は成らないが、食べるエンドーもこの種類だから花がキレイだ。咲いただけ実がなるので、エンドーの実が成るとラブミー農場ではエンドーばかり食べなければならない。ミソ汁のグから煮ものまで、エンドーで、食べるというより実ったものを始末しなければならないような気になってしまう。ラブミー農場ではナスが出るとナスばかりつづいて食べる。キューリが出るとキューリばかり、さやいんげん、トマト、とうもろこしと、食べる。都会の人のように、冬も、ナスやトマトなど食べる気にならない。つまり成る季節にアキるほど食べるので季節外の野菜を食べる気がおきない。やはり、都会人は、年間とおして同じ野菜を食べるのは、ふだん少しずつしか食べていないからだろう。考えようによって、一年中同じものを食べることができる都会人のほうが幸福かもしれない。また、不幸かもしれない。
いつだったか、夏、学生さんが泊り込んで農業を手伝ってくれたことがあった。まい朝、まい朝、ミソ汁とダイコンおろし、ミソ汁のグも、そのときの畑のものばかりなのだ。私のような老人ならいいが、若い人にはやりきれないらしい。私は知らなかったが、あとで、「カタイ生活をしています」と、誰かに言ったこえが届いてきた。カタイというのは、倹約ということなのかもしれないが、この場合は「ケチな暮しかた」という意味らしい。そんなふうに思われても、「百姓の生活だ」と私は思っているのでケチとも、倹約とも思っていない。
入梅の頃、南天が咲く。山梨の石和の私の故郷では南天は便所の近くに植えることになっついる。便所で倒れたら - 脳溢血などはよくトイレで倒れる - 南天の枝を折って杖にすれば中風[ちゆうぶう]にならない、と言われている。いまはそんなことを言う者もいない。南天の葉は赤飯などを重箱にいれるとき入れるが、これも縁起で、南天は虫が食わないから重箱の中味のものも腐敗していないという意味だそうである。トイレのそばの南天の葉を食べる物に入れるのは嫌だから、私のところでは、使う南天は別のところに植えておく。
南天の花を私は好きで、大げさに言えば花の中で最も美しいと思う。南天の花は黄色いと言われている。だが、はじめは白いつぼみが房状につく。白いつぼみの皮が割れて黄色い色の花が咲く。めしつぶぐらいの花だが、黄色い花になるころ外側の白いつぼみの皮が赤く色づく。なんとなく赤く、なんとなく白く、なんとなく黄色いこの花は陽に照らされると黄色は金色のように輝く。赤い色はほんのりと頬にぬられた女性のべにの色なのだ。もっと不思議なのは、黄色い色が割れると中が奥深いように見える。その奥は、なんと、女の笑う口の中の歯を思わせる。妖しく、美しく、私は「女陰」を思う。本物の女陰は暗いが感覚的な女陰の味の不思議さを私は南天の花の奥深くに味わうことができる。妖しく美しいというよりほかに表現を知らない。
南天の実ははじめ青いが、秋になると真赤な房の実になる。正月などは花の材料に使うがラブミー農場では赤い南天の実を見ることができない。秋の深まる頃、実が赤く色づく頃、たんぼの稲もなくなる頃、小鳥たちの餌となって食べられてしまうからだ。赤い実を眺めるためには金網かなにかで南天の木を囲っておかなければならないだろう。そんな面倒なことをするつもりはない。南天の花のこぼれた白い花びらは「梅雨の雪」と言いたい。入梅の頃、雪のように散り乱れるからだ。
キキョウの花は、花屋で売っているのは濃い紫色だが、私のところは薄むらさきで、これは野生の種類らしい。透きとおるような薄むらさきの色は尊い色だと思う。キキョウは盆まえから咲くが、咲き終ると茎を半分に切る。下からつぼみが出て秋まで咲きつづける。
朝顔からキキョウ、カカリアと秋まで咲きつづける。畑に直接植えてあるから花の数も多い。秋ごろは一本の朝顔は一株になってまい朝二十輪以上も咲く。いつだったか、朝、その朝顔を見て横をむいてしまったヒトがあった。「キモチ悪いほど咲いている」と言っていた。ソッポを向くほどの朝顔の数は、とても鉢ではダメだし、垣根のようにすると花はだんだん上に行ってしまう。畑の中でも、先端を株にしたほうが面白い。

(巻二十六)街をゆく臍出しギャルや稲光り(井上ひろし)

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(巻二十六)街をゆく臍出しギャルや稲光り(井上ひろし)

 

9月19日土曜日

 

プランターのミカンの木に残っていた最後の果実が落ちてしまった。

昨年は完熟し、鳥が来て啄んだが、今年は夏の終わりで幕となってしまった。

 

耐へていしミカンの落つる彼岸かな (駄楽)

 

散歩:

 

雨が落ちてきそうなのでコンビニから生協と小じんまりとまとめてみた。

 

本日は三千四百歩でした。

 

俳句:

 

獺祭忌・糸瓜忌

 

今日は子規の命日だそうだ。ラジオの相撲実況放送の中でそのことが触れられて、

 

天高し角力の太鼓鳴り渡る(子規)

 

が紹介されていた。

 

「墨汁一滴 - 正岡子規」文春文庫 教科書でおぼえた名文 から

 

《人の希望は初め漠然として大きく後[のち]漸[ようや]く小さく確実になるならひなり。我病床に於ける希望は初めより極めて小さく、遠く歩行[ある]き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四五年前の事なり。其[その]後一二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに余りに小さき望[のぞみ]かなと人にも言ひて笑ひしが一昨年[おととし]の夏よりは、立つ事は望まず坐[すわ]るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつ程[ほど]になりぬ。しかも希望の縮小は猶[なお]ここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛無く安らかに臥し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早[もはや]我望もこの上は小さくなり得ぬ程の極度にまで達したり。此[この]次の時期は希望の零[ぜろ]となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃[ねはん]といひ耶蘇[やそ]はこれを救ひとやいふらん(三十一日)》

 

願い事-叶えてくださればありがたい。

 

Dear friends,

 

I dictate BBC radio programs for improving my listening skill, but I cannot catch some words and may incorrectly collect pronouns, articles and singular-plural. It is very much appreciated if someone tells me the parts of ******** in which what words are spoken.

 

At around 0855 from the beginning of the following program. “Let’s me put it this way. Everyone sits on a frugality spectrum. So imagine one extreme of the spectrum got b*** g**** and b*** g**** can survive on nothing.” It sounds like “bear glove”, but it is a brand name.

 

Money Box

 

https://www.bbc.co.uk/programmes/m000b0c5

 

How To Retire Young

 

A US movement called FIRE – Financial Independence Retire Early – urges millennials to save their income and budget so much they can retire before they're forty. Is it realistic?

 

1/3「ラブミー農場の四季 - 深沢七郎」文春文庫 余禄の人生 から

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1/3「ラブミー農場の四季 - 深沢七郎」文春文庫 余禄の人生 から

埼玉へ来てから十二年もたった。三反半の畑に「ラブミー農場」などと愛称をつけて「農場だ」などと張り切ったのは越してきた当時だけだった。
いまは自分の食べる葉っパ類しか作っていない。食べるものしか作らないという私の畑も、いつのまにか私の気持は変って草花などの眼をたのしませるものも姿を見せるようになった。これは自分でも意外だと思う。花などは花瓶やコップなどに挿すのだが私は畑に直接植えてしまう。畑といっても家のまわりである。水などをかける手数もかからないし、散って、しぼんでも片づける手間もいらない。
野菜の花で綺麗なのは春菊だ。春菊は晩秋に種をまいて冬を越す。食べきれないものは春の三月の終りごろから薹[とう]が立って黄色いマーガレットのような花が咲く。野菜の花は可愛い。雑草や山草のように小さく、薄い色だからだろう。
私の畑では早春に小梅の花が咲く。白い、清楚なあの花だ。道からの入口に二、三本あるが、やっとこの頃は花ばかりではなく実が成るようになった。これも、このごろ病気の私には、花の咲く頃、いちどぐらい、入口まで歩くときに眺めるぐらいだけしかない。
春はさくらの花というが、さくらは私のところにはない。すぐそばの土手にさくらが咲くから眺められるのだ。さくらの花より二、三日早く、桃の花が咲く。桃も、五、六本植えたが実の成るころは裏側なので食べるのに気がつかず、ボタボタと落ちてしまう。桃も、一個ぐらい食べればいいのだ。さくらや桃の花の頃、豊後梅の花が咲く。「梅は紅梅」と言われて紅い色の梅の花が一番美しいとされている。ただ、紅梅は花梅だから実は成らない。ところが、豊後梅の花は紅梅で、実も成るのだから花を眺めてたのしんで、実も食用になる。実の数が少ないのが欠点だが、大きな実がつき、あんずや、すももぐらいの大きい実である。私の畑では豊後梅は四十本ぐらい植えたが、とても多すぎるので、いまは十本か、十五本ぐらいしかないだろう。果実の木は年ごとに大きくなって、実も沢山なるので僅かしか成らないけれど、ここへ来た頃は、なんでも本数を多く植えたのだった。
ただ一本しか植えなかったのは海棠[かいどう]で、これは花海棠ではなく実が成る種類である。いまは海棠の実など食べない。たいがい、リンゴの苗木の台にするだけだそうだ。私の子供の頃だから、五十年も以前だったろう。山梨の石和の私の家から六キロも離れた「ヤツシロの双子塚[ふたごづか]さん」という寺の祭りがあった。秋の夜の祭りで、「フタゴヅカさんへ行ったら海棠を買ってきてくれんけ」と、行くヒトにたのんだりしたものだった。海棠の実は一升五銭だか、六銭だかと覚えている。親ユビぐらいの大きさの丸い実で、まん中はリンゴの中のようにシンがあるので食べられない。食べるのがめんど臭いようだが、食べるところが少ないのが、また海棠の実の味かもしれない。私はこの実を好きで食べるけれど若い者などはリンゴを食べているからこんなめんどうなものは食べない。このごろはリンゴやブドウはお菓子のように甘く、果物の味とはちがっているようだ。美しく、大きく、甘く改良されたり、栽培方法が研究されているからだろう。果物は、ほんとは、山ぶどうのように野性的な味が大切だろうと思うけれど。
海棠の花は綺麗だ。花海棠はもっと美しいが、実の成る私のところの花も素晴らしい。入口からはいると家の右側に咲く。たった一本だが花の数は無数だ。植えたときはハタキぐらいの太さで一メートルぐらいしかない木だったが、いまは下枝の太いところは登れるくらいの大きさになった。
海棠は花も無数に咲くが、花びらの散るのは文字どおり花吹雪のようだ。四月の終りごろで花吹雪の風が吹く。地面も花びらでおおわれるが、実も無数に成る。
さて、私の住んでいる町の名は「菖蒲[しようぶ]町」で、昔から菖蒲の多いところだそうである。戦国時代は上杉謙信の砦で、城といっても小さいものだったらしい。城が作られて入城するとき、あたり一面が「あやめ」の花だったので「あやめ城」と名づけられたそうである。あやめは、おそらく、「三寸あやめ」のような紫の、小さい、清楚なものだったらしい。この辺は沼地なので、あやめも自生していただろう。沼地なので花の数が多く、花の数が多ければ綺麗だろう。あやめ城の城跡というのは現在も残っていて田んぼの中に、大きな松と碑が立っている。
私はこの菖蒲町に来て、「しょうぶ町」なので花菖蒲のことだと思ってしまったが、実際は花菖蒲ではなくアヤメのことだった。この辺の年よりたち - おばあさんたちは、あやめも花菖蒲も同じらしい。チューリップ、グラジオラスなども「あやめ」と呼んでいるのはほほえましい。学術的な話をのぞけば花などというものは、そんな大ざっぱな区別だけでいいのではないかと思う。むずかしい花の講釈などはかえって花を眺めるよろこびを半減してしまうのではないだろうか。
菖蒲町へ来たので花菖蒲の苗を植えた。肥後花菖蒲だそうだ。地質がよく合っているので年々ふえて行く。一本の苗が三十本、五十本の大株になってしまったので、こんど根わけをしようと思っている。
あやめが終ると入梅から夏が近づいてくる。夏の朝がたのしいのは朝顔があるからだ。菖蒲町でも私のところは町からかなり離れているが、町には私にとって「あさがおの先生」というヒトがあって、まいとし、初夏に苗をくれる。このあさがおの先生は「おおやさん」という書店の主人である。偶然だが、本の話などもするときがあるが、このあさがおの先生は朝顔ばかりではなく、ほとんどの花を持っている。なかでも椿は何百種というほどあるようだ。ほかに農業もやっていて、自分の家の食料用もかなり間に合っているらしい。私よりも五、六歳年配だが、ひとりで、道楽にやっている。私は心ぞう病をやって、死にぞこなってから六年も七年もたった。食料用の野菜を作っているといっても私には出来ないので他の人にやってもらっている仕末だ。だが、眺めたりしていると自分の作ったもののように思っているから妙だ。あさがおの先生はこの点、素晴らしい。驚くのは玉ネギの苗まで私のところに持ってきてくれる。春の玉ネギの収穫どきには大きい実まで持ってきてくれる。とても、私など比べものにならない。それでも本物の百姓ではなく趣味の農業だからかなわない。このあさがおの先生は朝顔ばかりではなく桔梗やとくさ、虫とりナデシコの苗まで、私はもらったので、ラブミー農場の本家みたいな感じがしている。

(巻二十六)なに隠すつもりか春のふところ手(西條泰弘)

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(巻二十六)なに隠すつもりか春のふところ手(西條泰弘)

 

9月18日金曜日

 

今年は害虫が多い。

少なくとも二種類いて、写真一の虫は緑色が鮮やかで背中が丸みを帯びている。名前は知らない。写真二のもう一つは、土色の保護色になっている背中の平ら虫で、背中の形からか“亀虫”と呼んでいる虫である。亀虫は此処が亀有だからいるわけではないらしい。亀虫は潰すと悪臭を放つ。

何れも手の親指の爪ほどの大きさである。

 

虫が居るのは仕方がないと荷風散人も書いていらっしゃった。

 

「偏奇館漫録(冒頭) - 永井荷風」中公文庫 麻布襍記 から

 

《およそ物として虫なきはなし。米穀の俵に虫あり糞尿に蛆あり獅子に身中の虫あり書に蠧[と]あり国に賊あり世に新聞記者あり芸界に楽屋鳶ありお客に油虫あり妓に毛虱あり皆除きがたし。物美なれば其虫いよいよ醜く事利あれば此に伴うの害いよいよ大なり。》

 

どちらの虫もまだ家宅侵入には成功していないようだが、網戸や表の通路には隠れもせずに存在している。

 

見ぬふりをして気掛かりな放屁虫(柴野志津子)

 

蟻、蝶、蝉、蜻蛉あたりまでは触れて摘まめるが、蟷螂や亀虫となると手袋をしても触れない。

網戸に停まっている蝉なら払って追い出せるが、亀虫には殺虫剤を噴霧して退散してもらっている。

 

ぶつかるは試行錯誤か黄金虫(斎藤実)

 

こんなことを書いていたら、洗濯物の取り込みを手伝えと細君から声が掛かった。

ベランダのサンダルを履こうと揃えたら、そこに亀虫を発見した。

サンダルを振るって亀虫を床に落とし、返すサンダルでバシッと一撃を加えるも絶命には至らず。亀虫が側溝に転がり込み、仰向けに足をバタつかせているのを広告紙の端で掬い取り地上へと追放した。

 

次の世は蠅かもしれぬ蠅を打つ(木田千女)

 

細君は摘まんで棄ててしまえとガラス窓越しに身ぶりで指示するが、私の身にもなって貰いたい。

 

息吹きて摘まめぬ虫を打ち捨てり(駄楽)

 

散歩:

 

図書館からお願いした図書がリリオのサービスカウンターで3時以降受け取れるとメールが入った。

4冊の文庫本を受け取った後、夕方の高架下マーケットを歩いてみたら一切れ百円の鮭に行列が出来ていた。

今日は軟弱にも往復バスでした。

 

本日は二千六百歩で階段二回でした。

 

願い事-叶えて頂ければ嬉しく存じます。勝手なお願いですが、一発で仕留めてください。

「いつもそばに本が - 島田雅彦」朝日新聞読書欄-ワイズ出版 から

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「いつもそばに本が - 島田雅彦朝日新聞読書欄-ワイズ出版 から

これまで暮らしてきた家は皆ろくでもない家ばかりだった。これまで食べてきたものも、近頃の青少年の食生活を笑えない代物ばかりだった。ある日、自分の余命を考えて、愕然とし、慌てて居住空間と食生活の改善に努めることにした。金の価値は老いるほどに下がる。若者にとっての十万円と老人にとっての十万円は大いに違う。おのが快楽のために使うにしても、体力の衰えによって、老人は限られた使い道しかない。また老人は、未来の自分に投資しようにも、余命が限られている。
老後の生活を心配して金を貯めたはいいが、結局それを使うことなくあの世に行った人の話をよく聞く。身寄りのない老人の場合、その金は国庫に入るという。国庫に収められるくらいなら、大学に行くとか、芸術活動に寄付するとか、いろいろ使い道はあっただろう。老後の生活に不安を与える社会だから、老人はやむなく金を使わずに貯めておくしかないのだ。
しかし、日々の糧を得ることよりも、老後に襲ってくる退屈の方が不安だ。おそらく教養というのは、老後の退屈を凌ぐ知恵のことなのだろう。放っておけば、おのずと働きが鈍くなる脳に日々、刺激を与え続けるために人は読書を習慣化したのかもしれない。だとすれば、本を読まない者はもっと老後を恐れなくてはならない。
幸い、住まいや食物に較[くら]べ、書物の方はこれまで後悔するほどひどい物は読まずに済んだ。もっとも、食物と違って読物は、いくらジャンクを食らおうが、一日何冊読もうが、体を壊すということはない。胃袋に較べて、脳は遥かに丈夫にできている。
幼い頃、私は偏食を極めていたが、本の方は選[よ]り好みしなかった。弟は私の逆で、食べられるものは何でも食べたが本は一切受けつけなかった。私はもの書きになり、弟はコックになった。毎月家庭に配本される童話は暗記するほど読んだが、オスカー・ワイルドが私のお気に入りだった。小学校時代、私は百科事典が好きで、暇さえあれば、それを読んでいた。百科事典というのは、たとえば、アメリカのことをゆく知ろうとすれば、あめふらしの習性やあめんぼの歩き方までわかってしまう実に便利なものだった。調べごとをするにも、目当ての項目にはなかなか辿り着かない。つい前後の項目で道草を食ってしまうからだ。しかし、この道草が積もり積もると、ある日、教養に変わっている。おそらくクイズのチャンピオンも百科事典の道草から生まれるはずだ。
百科事典を読む癖は息子が受け継いだ。私もかつては、何の脈絡もなく、ピテカントロプスだのマキャベリズムだのと呟いていたと思う。
 
難しそうな本をこれ見よがしに読む嫌みな同級生がクラスに必ず一人はいた。それが私だ。私は百科事典マニアだったが、百科事典には波乱万丈のストーリーがないので、中学の頃からは文学全集マニアに転向していた。文学史年表を見ながら、しらみつぶしに読み漁ってゆくのが、当時の私の読書流儀だった。しかし、文学史にその名をとどめる作品はどれも退屈で、三分の一も行かないうちに投げ出してしまった。質より量を求める読書では、平板な日本語で書かれた作品の方が有利だ。そこで手に取ったのが、江戸川乱歩全集、新田次郎全集、五木寛之全集(当時)、探偵小説全集などである。やがて、趣味が固まり出してくると、夢野久作全集や安部公房全集を読むようになる。現実逃避の傾向があった十代前半は、怪奇幻想系が脳によく馴染んだ。父が読んでいた宇能鴻一郎川上宗薫の官能小説を盗み読んだが、この時速読の基本を身につけた。
高校時代、主に通学の電車の中で読書にかまけたが、薄い文庫本なら行き帰りで一冊読めた。毎日の習慣ゆえ、この時期に読んだ分量はわが半生のうちで最大だっただろう。何しろ、この頃には文筆で身を立てようと考えていたので、ただ楽しみのために読書していたわけではない。趣味では本など読まない。読書は仕事だった。ただストーリーを追うだけではない。意外な言葉の結びつきとか、作家が偏愛する用語とか、比喩の発明などをチェックしていた。作品にはストーリー以外にもさまざまな仕掛けが施されており、そちらの方に気を取られて、ストーリーを忘れることも多かった。ストーリーのない百科事典も物足りないが、何処からでも読み始められる利点がある。大抵の小説はその逆。いつか、何処からでも読める小説を書きたいものだと考えていた。
ところで、私は文学にばかり忠誠を誓っていたわけでもなく、バンド活動や美術作品製作にもそこそこの情熱を示していた。浜辺に行けば、砂の彫刻を作るし、粗大ゴミの回収日にはリサイクルできそうな家具や楽器を拾ってきて、自作の楽器やオブジェを作るし、休日にはメンバーのうち誰かの家に集まって、作曲したり、貧乏アートに熱中していた。高校時代......それは私にとってアヴァンギャルドの時代であった。ポーやラヴクラフト夢野久作寺山修司の世界が、サルバドール・ダリフランシス・ベーコンのイメージ、セックス・ピストルズシュトックハウゼンサウンドと結びつき、私の破壊衝動を満たしていたのだ。結果的に読書が私を文章以外の表現ジャンルに誘惑したことになる。

高校卒業とともに私のアヴァンギャルド時代は終わった。混雑した予備校の教室で日々、欲求不満を妄想で中和しながら暮らしていた反動が、大学に入ってから噴出し、私は貯め込んでしまった妄想を吐き出す。美術部で、学生オーケストラでの活動のかたわら、小説を書く。自分の妄想に値段がつく日を夢見て、八〇年代のことである。
大江健三郎中上健次にあらたにW村上が加わり、学生読者を奪い合っていたが、私の関心は全く別の世界にあった。冷戦時代の子どもである私は個人的に反米主義の立場を表明しようと、ロシア語を学び始めた。いざ、始めてみると、この言葉はやたら文法が複雑で、同級生は一人二人と脱落してゆく。前期の二年間は気が抜けなかった。それでも、ある程度使いこなせるようになると、大抵の日本人に読めないロシア語の本が読みたくなる。入門編にチェーホフあたりが無難だったが、三年になると、翻訳もない二〇年代アヴァンギャルド時代の作品を読みたくなった。本国のソ連では発禁と聞けば、なおさら読みたくなる。ザミャーチンブルガーコフをはじめ、ナボコフ、マンデリシュタームなど、ロシア語を学び始めてから知った作家たちの作品を貪り読んだ。順序は逆になるが、彼らの作品のテンションに煽られて、ゴーゴリドストエフスキートルストイレスコフなど十九世紀の傑作群にものめり込んだ。同じ時期、ロシア・フォルマリスムやミハイル・バフチンの文学論も読み、小説を理論的に分析する方法を知った。つまり、まともにロシア文学を研究してしまったのである。文字通り、私は文学の洗礼を受け、これまでとは全く違ったスタンスで小説にアプローチすることになった。その成果がデビュー作の『優しいサヨクのための嬉遊曲』だった。
一九八三年......私とともに浅田彰がデビューし、ニューアカデミズムがブームとなる。この時期、私の本棚は今となってはほとんど読まれなくなった現代思想の書物に占拠されていた。フーコードゥルーズデリダクリステヴァ......二十年前までは一連のしち難しい本もそこそこに読まれていたことを思うと、活字文化から何が失われたかがよくわかる。
近頃、日本語の幼稚化にいっそう拍車がかかっている。ベストセラーのラインナップを見るにつけ、暗澹たる気分になる。みんな童話ではないか。分かりやすさの追求の結果が、このざまである。むろん、本を読まない若者ばかりを責められない。中年も老人も紋切り型の磨耗した日本語しか受けつけなくなっているのだ。どうやら、文字は読めても、文章が読めない非識字者ならぬ非識文者に出版の未来は握られてしまったらしい。

(巻二十六)群衆に距離置く男雲の峰(刈田光児)

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(巻二十六)群衆に距離置く男雲の峰(刈田光児)

9月17日木曜日

家事:

洗濯と風呂場の排水口付近の掃除などいたした。

先輩からの電話などもあり、午前中の散歩は取り止めといたした。

また別の滝にならんと水奔る(三森鉄治)

散歩:

亀有図書館が来年まで休館である。一つだけ困るのが『月刊角川俳句』が直ぐには読めないことだ。雑誌も貸出して呉れるが、一と月間は閲覧だけである。

一と月待てばよいのだが、待たずに読むとなると隣接する図書館に行くしかない。

一番近いのが青戸地区図書館だが、蔵書数は三万冊で閲覧席が十数席との紹介だ。

蔵書の規模で亀有図書館の三分の一である。果して『月刊角川俳句』は配本されているだろうか?

秋風に小銭の溜まる峠神(角川春樹)

それがあるかないかはネットで調べられるが、午後調査のために遠征することにした。バス停の数にして四つである。難所と云うことではないが国道6号線を渡る。もちろん歩いた。

青戸地区図書館は住宅街にある青戸地区センター(区役所の出張所)などが入ったビルの二階にあり、学校の教室程度の広さである。定期刊行物の種類も少なく、『月刊角川俳句』は置いていなかった。

文庫の書架に『不良妻権-土屋賢二』があったので捲ってみた。いずれ借りよう。それを成果として図書館を出た。

バス通りに出ると、葛飾区の世界ブランド「TAKARA TOMY」のビルが見えた。

同じ道を戻り、地元のコンビニで“よく歩いた”ご褒美の祝杯をあげた。

七人の敵の一人と黒麦酒(渡辺嘉幸)

本日は七千九百歩で階段二回でした。

願い事-叶えていただければありがたく存じます。いい頃合いだと思っております。不足はございません。

「歌謡曲は哲学である - 山内志朗」ベスト・エッセイ2012 から

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「歌謡曲は哲学である - 山内志朗」ベスト・エッセイ2012 から

今、私は哲学と歌謡曲の関係について調べている。なにをバカな、と思う人も多いだろう。なぜなら、哲学とは理屈であり、歌謡曲とは理屈などどうでもよく、ひたすら情念を歌い上げるものだからである。この両者に関係などあるはずがないではないか...と。もっともである。しかし私は根っからの歌謡曲ファンであり、二十年来、カラオケでの十八番は「天城越え」である。そして、歌い続けるうちに両者の関係が徐々に明らかになってきたのである。
では、実例を「襟裳岬」(唄・森進一、作詞・岡本おさみ、作曲・吉田拓郎、一九七四年)に見てみよう。

*北の街ではもう悲しみを暖炉で燃やしはじめてるらしい

森進一のだみ声がやはりいい。森進一を代表する唄である。レコードの売り上げでは、「港町ブルース」や「年上の女」にはかなわないけれど、ものまねでよく歌われるのは「襟裳岬」だ。人間の情念を唄うのに澄み切った天使の声は似合わないのである。森進一のだみ声、あれは情念がそのまま声になったような感じがする。今聞いても全然古くない。
歌詞を見てみよう。悲しみを暖炉で燃やすと唄っているのだが、これはどういうことか。理屈で考えると悲しみは燃やせるものではない。もしそんなことができたら、喜びをテンプラにしたり、怒りで凧揚げができてしまうではないか。
しかし待て待て、歌は心で感じるものだ。悲しみを暖炉で燃やし始めているとはどういうことか。これは襟裳岬が冬から春に向かうころ、暖炉に薪をくべる人間の心の内を詩的に表現しているということだろう。しかし、なぜ燃やすものが「悲しみ」なのだろうか。
それを解く鍵が次の一節にある。

*襟裳の春は何もない春です

襟裳岬のような北国では、春を迎える前の冬の終わりは一番何もない時期である。私も北国育ちだからよく分かる。食べ物も燃料もなくなってくる。口数も減ってくる。余っているのは「悲しみ」ぐらいだ。そういう悲しみをどうすればよいのか。燃やすしかないのである。情念は押し殺されて消えるものではないから。
古代ストア派の哲学者(ゼノンが代表)は、情念を抑制することを理想とした。そしてこれが長い間哲学の主流となってきた。だが、情念は抑制しても、消えるものではない。とどまり続けるのである。このように「襟裳岬」は、物質は存在したりなくなったりするが、悲しみといった情念はなくならないことを教えてくれるのである。悲しみは暖炉でいつまでも燃え続けるのである。
哲学では、情念を擁護する立場は古代から近代に至るまでずっと少なかった。そういった流れに徹底的に反対したのがD・ヒューム(一七一一~七六)だ。彼はこう述べる。

理性は情念の奴隷てあり、かつ奴隷であり続けるべきである。言い換えれば、情念に奉仕し服従する以上の何らかの役目を望むことはできないのである(『人間本性論』)

理性に対する情念の優位を声高らかに宣言しているのである。といって、すぐにキレたり、注意されると逆ギレする人とか、クレーマーとか、情念のままに動いているような人への応援ソングではない。
ヒュームも憂鬱や悲しみをいつも抱えていた人だった。ヒュームはそれに思想としての形を与えた。理性や理屈だけでは、物事は具体化しない。禁煙やダイエットも達成できない。情念が必要であり、それが人間の意志に働きかけなければならないのである。情念は確かに制御しにくいけれど、情念を無視した哲学など役に立たない。ヒュームはそう言いたいのだ。情念を忘れるなかれ、という点で「襟裳岬」とヒュームは意気投合するのである。燃やすことでは一致しているから。情念の燃やし方に違いはあるけれど。
赤ちょうちんでの飲み友達のように、その違いは酒の肴となって尽きない話が始まる。そういう関係が哲学と歌謡曲にはあるのだ。