3/3「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から

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3/3「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から
 
実際、死の恐怖を考慮に入れず、人間を単なる合理的、利己的存在と見る経済学的人間像、あるいは個体保存本能と種族保存本能に駆り立てられていると見る生物学的人間像にもとづくいかなる理論も、人間とその営為を説明できないであろう。人間の欲望にはつねに死の影がつきまとっている。人間の欲望はつねにある意味において死の恐怖からの逃走である。何ら現実的基礎をもたず、完全な虚無へ、底なしの深淵へ転落する危険にさらされている不安定な自己の存在を何とかこの世界につなぎとめようとするあがきである。だからこそ、人間の欲望を、物欲、金銭欲、名誉欲、権力欲、攻撃欲などを単に個体保存本能の発現と見る理論はナンセンスにゆき着いてしまうのである。人間の欲望が満足の限度を知らないのは、恐怖からの逃走だからである。恐怖から必死に逃走している者には、これで充分だとか、このあたりでやめておこうというようなゆとりはない。不安定な自己の基礎を主として何に求めるかは、民族によって、個人によって多かれ少なかれ異なっているであろう。ヨーロッパに資本主義が発達したのは、ヨーロッパ人においては、物質的・金銭的利益にその基盤を求めようとする傾向が強かったからであろう。武勇と名誉にその基盤を求める傾向が強い民族もいる。しかし、民族の場合にせよ、個人の場合にせよ、もともと自己は幻想であり、その安定した基盤なんかはありっこないのだから、そのような基盤を求めようとする試みが最終的目標を達成することは決してない。財産にその基盤を求めようとした者は、どれほど財産を蓄えようが決して満足できず、さらに財産をふやしたい欲望に駆り立てられる。事業にそれを求めた者は、どこまでも事業を拡張したいであろう。彼がもしチェーン組織の会社をつくったとすれば、全国津々浦々にくまなくチェーン店ができるまでは落ち着かないあろう。権力にそれを求めた者は、あくなき権力欲のとりことなる。彼は、もし可能ならば、自分の自己に他のすべての者の自己を従属させたいであろう。そして、自分を始祖とする不滅の帝国を築きたいであろう。
攻撃欲は死の衝動が外側に向かったものであるとするフロイド理論に反対して、ある精神分析者たちは、他を攻撃するのは自分を守るためであり、したがって、個体保存本能、生の衝動に発するものであって、それを逆に死の衝動に由来するとするのはおかしい、人間の攻撃欲がときおり、個体保存の目的のために必要な限度を越えて過剰なものとなるのは、かつて抑えつけられた攻撃欲が蓄積されているからに過ぎないと主張する。わたしも、死の衝動の存在を認めず、攻撃欲は個体保存本能に発するとする点では彼らと見解を同じくするが、ただ、わたしに言わせれば、彼らは、個体保存本能の対象たる保存されるべき個体が、動物の場合と人間の場合とでは本質的に異なることを忘れている。すでに繰り返し述べたように、動物の場合は自分の現実の生命の保存が目的だが、人間の場合は幻想としての自己の保存、いやむしろ安定が問題なのだ。人間の攻撃欲がしばしば必要以上に過剰となるのは、かつて抑えつけられた攻撃欲が蓄積されているからというより、物欲や権力欲の場合と同じく、死の恐怖に駆り立てられているからである。いささかも生命をおびやかされたわけではないのに、われわれが侮辱をがまんできないのは、侮辱がわれわれの自己を危険にさらすからである。現実的基盤をもたない自己は、自尊の幻想に支えられており、幻想に支えられているがゆえに、そこを崩されると、自己そのものが虚無に転落してしまうのである。それは、生物学的な意味での死ではなくとも自己の死であり、それゆえにわれわれは、死の恐怖に駆り立てられて、ときには生物学的生命の危険を冒してまで、侮辱に対して反撃する。そして、そのような反撃は、つねに、個体保存の目的のために必要な限度を越えた過剰なものとなるであろう。攻撃欲が死の衝動に発するとした点でわたしはフロイドに同意しないが、いずれにせよ、人間の攻撃欲に死の影を見た彼の洞察は正しかったと思う。動物は、食料として必要だとか身に危険が迫った場合しか他の動物を殺さないが、人間だけが、現実的に有益な目的に役立たなくとも憎悪から他の人間を殺すことができるのは、人間の攻撃性が死の恐怖に発しているからだと思う。すなわち、他の人間を殺し、死を他の人間へと移すことによって、自分は死を免れようとするのであろう。
人はパンのみに生くるにあらずと言われるが、まさに、生物学的生命から遊離した自己なるものを築いた人間はパンのみで生きることはできない。しかし、もしパンのみで生きることのできる人間がいたとしたら、われわれよりははるかに平和的で、はた迷惑でない存在であろう。
物欲にせよ、攻撃欲にせよ、際限のない欲望に囚われ、駆り立てられている状態から脱出する道は一つしかない。それは、われわれが、われわれの自己が幻想であることを知ることである。そして、死を直視してその恐怖に耐えることである。それは不可能かも知れない。しかし、ほかに道があるであろうか。

(巻二十五)にんげんは面白いかと冬の猫(矢島渚男)

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(巻二十五)にんげんは面白いかと冬の猫(矢島渚男)

4月7日火曜日

今は面白くないが、面白いときはあった。今は面白くないが、閑居して心静かである。面白くはないが静かなのは悪くはない。ここまで来ると、面白いことは要らない。この閑寂のうちに終わりたいと願っているが、そううまくは運ばないだろうと悲観的になっている。

団地のゴミ置き場の後ろに団地の婆さんから餌をもらって生きている野良がいる。

しかし野良よ、婆さんが呉れる餌に頼っていていいのか?お前が何歳かは知らないが、どちらが先に逝くか分からんぞ。

そうか、君は今を生きているのか?

(散歩と買物)

細君が週刊朝日を買って来いという。息子の受験が終わって十二年経つがいまだに大学合格者の決定版を読みたいという。

近所のコンビニには週刊朝日はなく、駅前のエロ本屋の店頭でやっと見つけた。

ついでにちょっと店内を覗き、未だに生存している三和出版のエロ本を拝んだ。

エロ本だから絶滅しないのだろう。

(参考)

『解禁する - 開高健

《 ここ三年ほど外国へいかなかったので最新の実情を自分の眼で見ていないわけだが、欧米へでかけ、ことに北欧を見て帰ってきた知人たちの話を聞くと、どうやらポルノはすっかり下火になってしまったらしい。政府はいっさいの言論・表現の自由を認める立場から従来どおりにポルノ出版もセックス・ショップもおおらかに許可しているのだけれど、客が寄りつかなくなったために業者自身が方針を変えたというのである。いままでようにおおっぴらに店頭で売ることをやめて、妙に秘密めかした、解禁以前のような、こそこそした雰囲気に転換しはじめたというのである。論より証拠といってさしだされるポルノ・ブックを繰ってみると、明瞭に変化が読みとれる。いままでような、解剖学的リアリズムというか、医学的リアリズムというか、そういう全面開放をやめて、むしろわが国でいうチラリズムに変っているのである。肝腎のところをかくしたり、ボカしたり、映画になるとハイ・キー・トーンでトバしたり、というぐあいになってきた。政府が何もいっていないのにポルノ屋が自分で自粛をはじめ、“芸術”がかった方向へ転身をはじめたらしい気配である。》

2/3「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から

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2/3「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から
 
人間のさまざまな営為は、この不安定な自己に安定した基盤を与え、死の恐怖から逃走しようとする企てであると考えられよう。以前あるところでわたしは、人間が時間というものを発明したのは、過去において自分の生命を充分に生きなかった悔恨のためであり、未来という時点を設定したのは、その悔恨に償いをつけるためであると指摘したことがあるが、別の言い方をすれば、過去、現在、未来と流れる一本の線としての時間は、自己が一貫して存在できる場として必要なのである。時間とは、自己の仮の宿であり、この仮の宿がなかったら、自己は身の置きどころがないであろう。本当の宿はないのだから。
私有財産制の起源も死の恐怖に求めるべきであろう。安定した現実的基盤を何ももたない自己は、せめてこの世界のなかに自分の所属する確乎とした物質的実在を所有することによって、そこによりどころを求めようとするのであろう。しかし、財産は墓場までもってゆくことはできず、自己の永続性を何ら保証しない。そこで、子どもを自己の延長と見なし、子どもに財産を伝えることによって自己の永続性を保証しようとして、家族制度、世襲制度がつくられたのであろう。世襲されるのは、別に財産でなくともよく、地位でも名誉でも、何らかの特殊な知識や技術でもかまわないが、とにかく自己の存在の基盤が自分一代で消滅し、それとともに自己が跡かたもなく消滅することに耐えられないという死の恐怖にこの制度の起源があることは間違いない。また、養子制度や襲名制度に見られるように、自己の所有する財産等々をつぐのは、必ずしも自分の生物学上の子どもでなくてもよく、とにかくそこに自己の延長を見ることさえできればよい。いわば、世襲制度は生物学的な世代の連鎖の代用品である。われわれの自己は、その連鎖から浮きあがり、切り離されているので、その連鎖によっては自己の永続性を支え得ないから、世襲制度という代用品をつくってわれわれの自己を次の世代の自己へとつなごうとしたのである。
人間の集団の形成、とくに国家の形成もこの観点から理解しなければならないであろう。さきの言い方をもう一度使えば、国家も動物の場合なら個の生命がその一部であり、そこに所属している類の生命の代用品なのだ。われわれの自己は、本来、自分だけのものであり、どこにも所属していない。われわれはそのことに耐えられない。そこで、われわれの自己、他の人びとの自己を包括するより大きな全体的自己として国家を形成したのである。われわれは国家のなかに自己の永続性の保証を見る。そうできるためには国家は永遠でなければならない。わが国の場合で言えば、国家の中心たる天皇万世一系でなければならず、君が代は千代に八千代に、さざれ石の巌となりて苔のむすまでつづくのでなければならない。アメリカの場合で言えば、星条旗は永遠でなければならない。ローマ帝国も永遠であるはずであった。言うまでもなく、これは(共同)幻想であるが、その不合理性、危険性が明々白々であるにもかかわらず、われわが天皇制を完全に断ち切ることができないのは、われわれの死の恐怖がそれを支えているからである。国家を支配階級が被支配階級を抑圧するための権力機構とのみ見る理論はついに国家を克服し得ないであろう。そのような理論は、国のために生命を捨てる人間が被支配階級からすら出る事実をどうにもできないからである。わが国の場合、死の恐怖からの逃走手段としての世襲制度は社会のあらゆる層に強く根を張っており、それに支えられた天皇制が頂点に立っているのであって、もしでなくするとしたら、その悪口を叫んでいるだけではだめで、そのためにはわれわれが、自己は完全に何の跡かたも残さずいつかは消滅するという事実を認め、死を直視してその恐怖に耐えることができるようにならなければならない。それができずに、なおかつ天皇制をなくするとしたら、万世一系天皇以外に、われわれの自己の永続性の(共同)幻想を与えてくれる何ものかが必要となろう。N.O.ブラウンも言っているように、永続性、不滅性の宗教なしには、いかなる社会集団も存立し得ないからである。その背後にあってこの幻想を支えている死の恐怖を過少評価してはならない。

(巻二十五)ものわかりよくて不実や泥鰌鍋(佐藤鬼房)

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(巻二十五)ものわかりよくて不実や泥鰌鍋(佐藤鬼房)

4月6日月曜日

ミカンの鉢植えを買い日々水をあげている。

買い求めたときに花屋さんから一年経つと成長して6号の鉢では収まらなくなるので、春には8号に移し替えるように云われていた。

春が来て、さて困った。今まで土いじりなどしたことはない。自分で出来ることは百均で8号の鉢を買うことぐらいで、土さえ買えない。いわんや植え替えなどとてもとてもである。

細君がその花屋さんお願いして植え替えしてもらうことになり、今朝花屋さんにミカン鉢と8号鉢持ち込んだ。

植え替え後根付いたか様子を見るとのことで、お預かりいただいた。

鉢ものの孤影仕立に春深く(桂樟蹊子)

ミカンの鉢植えがあれば揚羽が来てくれるのではないか?という思い付きで細君が衝動買いした鉢植えだが、植物を育てる趣味はそうは簡単に身に付かない。

どの趣味にしても

老後になってから手を出すのは賢くない。習慣や蓄積がないと趣味として成立しないのである。

一つ趣味をば三十年の亀鳴けり(永野由美子)

消費・消耗・鑑賞だけの趣味ではだめだ。上手下手にかかわらず創造的である程度は生産的でないと時間が潰れない。

趣味だけが残った余生春来る(小川正純)

趣味が残ればご立派!

(散歩)

散歩は許されるのだろう。今日は曳舟川から亀中の正門の前を歩いてみた。

中学正門前の寺の掲示板に意味深長な言葉が掲示してありました。

このコースには外にベンチを置いているコンビニがないのでコンビニ珈琲が楽しめない。

8%の問題があるからだろうか?

(読書)

正蔵の定期券 - 江國滋旺文社文庫 落語美学 から

《「どうぞごゆっくり」といい残してさっさとおりていった、その地下鉄について、こんな話がある。

きちんと定期券を買って寄席にかよっている正蔵が、ある時、同じ区間なのにわざわざ切符を買ったので、弟子が「師匠、定期忘れたんですか」と尋ねると、「いや、ここに持っているよ」といってちゃんと定期入れを出してみせた。期限切れでもなければ、行先がちがうわけでもない。それなのに切符を買うのはなぜか。実は、この日、これが二度目の出勤だったのである。

「いいかい、通勤定期ってものはね、勤務先、われわれでいやァ寄席だァね、その勤務先へ毎日行って帰ってくるためのもんで、それだからベラ棒に安くなっているんだよ。きょう、俺はいったん家ィ帰ったろ?二度往復するのに定期使っちゃ悪いじゃねえか」

正蔵は弟子にそういって説明したという。卓然として独住する正蔵の面目躍如というところだが、これが、一事が万事なのである。 》

あまり重いものは読みたくない。

1/3「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から

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1/3「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から
 
人間が死を恐れるのは、生物学的な意味での生命から多かれ少なかれ遊離したところに自己の存在を築いているからであると思う。われわれが恐れているのは自己の終焉である。もちろん、生物学的な意味での死を恐れていることは確かであるが、それは、生命が自己の存在の基盤であるかぎりにおいてであって、それ以上のものではない。たとえば、ある時点で植物人間になり、それから数年後に死ぬとした場合、われわれが恐れるのは、明らかに植物人間になる時点であろう。また、人間は自分の信じているある価値、すなわち自己の存在がかかっているある価値を守るために生命を投げ出すこともあるのだから、生命よりは自己の方がより重要であり、その喪失がより恐ろしいのである。たしかにそういう人間はまれであるが、それは、自己の存在を構成している全体のなかで、ある価値の占める部分が、自分の生命の占める部分より大きい人間がまれであり、たいていの人間は自分の生命を自己の存在のもっとも重要な部分としているからに過ぎない。
したがって、自己というものをもたなかったとすれば、死の恐怖はあり得ないであろう。その意味において、生物学的生命そのものを生きている動物には死の恐怖はないと考えられる。動物の個体的生命は、より大きな種族の生命の一環であり、個の生命と類の生命とのあいだに乖離はない。個体の死は全体のごく小さな一部が欠けたということに過ぎず、それは、再生産(生殖)によって完全に補われる。生物学的生命は生殖細胞を介して世代から世代へと伝えられていくのだから、不死であるともいえる。
しかし、われわれ人間は、子どもをつくって次の世代へ生命を伝えたとしても、それをもって死の恐怖から解放されるわけではない。子どもの存在が死の恐怖をいくらか軽減するとしても、それは、われわれが子どもを自己の存在の延長で見ているかぎりにおいてでしかなく、そして、子どもの存在は、われわれの生命の永続的連鎖は保証し得ても、われわれの自己の延長を自動的に保証するものではない。子どもは子どもの自己を築くであろう。われわれの築いた自己と子どもの築く自己とは、本来別のものであり、そのあいだに、動物の親の生命と子どもの生命とがつながっているという意味でのつながりはない。自己はわれわれ一代かぎりで完全に跡かたもなく消滅する。要するに、自己というものを築いたかぎりにおいて、われわれは必然的に孤独であり、死を恐れざるを得ない。
では、なぜそのような厄介なものを築くのであろうか。それは人間が生物学的生命そのものを生きることができなくなったからである。人間の本能はこわれ、その現実適応の機能は失われた。人間は自然から切り離され、現実を見失った。自然のなかに人間の居場所はない。人間は、切り離された自然の代用品として文化を、こわれた本能の代用品として何らかの行動規準をもたねばならなかった。自己とはその行動規準の拠点として必要であった。自己の崩壊がどのような結果をもたらすかは、精神病が如実に示す通りである。人間は、いかなる感覚、感情、欲望も、いかなる義務、責任も、それを自己のものと感じ、認めるかぎりにおいてしか表現できないし、行動化できない。人間にとって、自己とは世界の中心であり、要である。自己が崩壊すれば、世界も崩壊する。
自己と自分の生物学的生命とは重ならない。自分の生物学的生命のうち、自己化されるのは、いいかえれば自己を構成する材料として用いられるのは、その一部に過ぎない。つまり、自己は自分の生物学的生命のほんの一部しか代表しておらず、したがって、国民のほんの一部の者の利益しか代表していない政府が不安定であると同じ意味において、必然的に不安定である。また、自分の生物学的生命からかけ離れたところに自己を築くことも可能である。たとえば、ある理想がすべての価値である熱狂的な理想主義者にとっては、その理想が彼の自己であって、そのために生命を捨てるのは何でもない。男の肉体をもって生まれながら、女としての自己を形成し、あとから「間違っている」肉体のほうを手術して「女」になる者もいる。自己と自分の生物学的生命とか完全に一致するということはあり得ない。自己の生物学的生命のみを自己化していて(と言っても、そのすべてを自己化することはできないが)、それ以外のところに自己を見出さない者をエゴイストと呼ぶわけであるが、エゴイストにせよ、「人間性」にもとづいているのではなく、自己をそのように狭く築いたというな過ぎない。
では、どのようなものが自己化されるかと言えば、それは、他者との人間関係において(まずはじめは、幼児期における親との人間関係において)、他者によって自己と認められたものである。われわれの自己とは、他者がわれわれの自己と認めてくれるところのものである。決してわれわれの生物学的生命のなかからあるとき自己なる実体が、種子から芽が出てくるような具合に浮かびあがってくるのではない。われわれの自己の存在は他者によって支えられている。わたしをわたしと認めてくれる他者が一人もいなくなれば、わたしはわたしでなくなる。もちろん、他者がわれわれの自己を認めても、われわれがそう認めなければ、われわれの自己とはならない。いわば、自己とは、われわれと他者との共同幻想である。自己なる実体はどこにもない。たとえは、わたしに音楽的才能があるというとき、それをわたしのなかに音楽的才能なる実体がが存在していると解してはならない。それは、わたしに可能なある種の行動を他者が音楽的才能と認め、わたしもそう認めているということに過ぎない(実際には、わたしに音楽的才能があると認めてくれる他者は一人もおらず、自分でも音痴だと思っているが、このわたしでも、もし猛烈な音痴ばかり揃っている集団のなかにいたとしたら、みんなから音楽の天才だと思われ、自分でもそう思い込んでいるかもしれない。そのときには、わたしに音楽的才能が存在しているのである)。金儲けの才能もまた然りである。金儲けの天才の脳をどれほど精密に調べようが、その才能の実体的基盤が見つかるはずもない。わたしは岸田秀という名で、ある大学の教員をやっているが、わたしがそういう存在であることを支える根拠は、ひとえに他者との関係にあるのであって、わたしの生物学的生命のどこを探しても存在しない。自己とは、実体ではなく“かたち”であり、しかも、人びとの共同幻想のなかにのみ描かれている“かたち”である。この意味においてもまた自己は不安定であり、絶えず消滅の危険にさらされている。しかし、われわれにとって、われわれ自身とはこの夢まぼろしのごとくはかない自己がすべてである。ゆえに、われは死を恐れる。

(巻二十五)黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)一騎駆けゆく花月夜(角川春樹)

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(巻二十五)黄泉平坂(ヨモツヒラサカ)一騎駆けゆく花月夜(角川春樹)

4月5日日曜日

天気も悪く、外出を自粛いたした。つまり散歩をサボった。(去年の写真)

午前中に洗濯し、午後はしっかりと昼寝をした。

朝日俳壇

咳をしたら人目(中村幸平)

高山れおな氏がこの句を選んでいた。パロディーもありか?

暇潰しはBBCで、
Food Chain
Coronavirus: Where did all the food go?
https://www.bbc.co.uk/programmes/w3cszjpm 
を繰返し聴いている。食料の需給逼迫はスーパーマーケットで発生したような短期的な品不足だけではないようだ。

物流の果ての渚を歩く蟹(福田若之)

1950年代は貧しい時代だった。その時代に貧しい家に育ったから旨いものを食べたことはなった。だがひもじいという経験をせず育てて貰った。腹が空いていれば何でも美味しかったし、今もそれは変わらない。
旨いを知らずに育ったから味覚が鈍く、旨いものを知らず分からずに人生を終わる。そのことに文句はないが、ひもじい目にあわずに他界したい。

つつまれていて薔薇の香を忘れたり(今橋真理子)

極楽、地獄、天国と行先は色々あるようだ。
黄泉の国というところも行先の一つらしい。そこには何もないらしい。極楽や地獄はカラフルだが、黄泉の国は荒涼としているらしいから、一番あの世らしいなあ。

 死ねばみな黄泉[よみ]にゆくとはしらずしてほとけの国をねがふおろかさ(本居宣長)

夜、細君とベランダに出て、真上にいる月を愛でた。
来る8日が今年のスーパームーンだと教えられた。

それ以上月昇り得ずとどまれり(阿波野青畝)

「病院通い - 上田三四二」文春文庫 89年版ベスト・エッセイ集 から

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「病院通い - 上田三四二」文春文庫 89年版ベスト・エッセイ集 から
 
二週間にいちど、癌研の泌尿器科に通うようになって、三年がたつ。中に三カ月におよぶ再入院の期間をはさんでいるが、厄介な、重い病気の術後の経過としては、予想をこえた上首尾といわねばならない。
術後の管理を終って退院を許されたとき、私は亡き数に入ることをまぬがれた身の幸いに深く感謝したが、蘇[よみがえ]ったいのちの先を三年向うに見るなどとは想像のほかだった。終生の病院通い、毎日の服薬、仕事はこれまでの四分の一見当、そういった心細い日常ながら、疲れやすいことを別にすればどうという苦痛もなく日を亘[わた]ることのできるのは、何という仕合せだろう。
隔週の火曜日、九時半に家を出て十一時前に病院に着く。毎度妻が付き添うのは足許が危ういせいもあり、またそれが夫婦のささやかな外出の楽しみともなっているからである。一時間あまり、時には二時間ほども待って、診察は顔をみてもらう程度ですみ、月にいちど採血のため検査室にまわる。薬をもらい、支払をすませると一時を過ぎるのが例で、池袋のデパートでおそい昼を取り、ちょっとした買物をして帰れば夕方ちかい。銀座に出たり、美術館に足をのばしたりしたこともあったが、再入院わしてからはそれも億劫[おつくう]で、すぐにも疲れるので、ついでの買物をしたがる妻をせきたてて付添いの本分に立ち返らせ、帰りをいそぐようになった。
前立腺のものは骨への転移がおそれられている。血液の諸検査のほか、半年ごとに“骨シンチ”と呼ぶ同意元素を注射する検査があって、指定された日の早朝に家を出て半日を病院に過ごす。どの検査も結果はつぎの定期診察で知らされ、異常がないと聞かされて帰るときの気持はかくべつである。もっとも、主治医の言葉をすっかり信じることもならない。病気の性質上止むを得ないところもあり、これまでにも経験のあるところだが、本当に悪ければ薬がかわったり、入院をすすめられたり、何らかの反応がある。ひとまずは安心し、「まだしばらくはいける」と思う。賑わうデパートの“食堂街”で天麩羅やうなぎを人並みに食う気になるのはそういうときだが、すると覿面[てきめん]に夜の食事にひびく。何はともあれ、「寝るが極楽」の身上ゆえ、帰ればすぐにも横になって一寝入りする。
つらいことは忘れるものだというが、そのとおりだと思う。癌研の敷居を跨[また]いでも、発病のころの不安や、不安が次第に現実性を帯び、それももっとも恐れていたかたちのものになっていったときの悲痛な胸のうちなどは、ほとんど思い出すことができない。忘れられるから生きられるのだと思う。いや、忘れられるわけはない。それらの逐一は、入院、術前検査、手術、術後とつづく、逃れたく、逃れようもなく、そして二度と体験したくないつらい日々へと引継がれ、濃い情動の色に染まりながら記憶の底に沈んでいる。記憶は、浮きあがり、訴えようとするだろう。が、それは大方いつも、何かによって押し込められ、癌研というその体験の現場に臨んでも、いまの私のような再々の訪れではなおさら、めったに想起の引金になることはない。何かによって - 記憶を押し込む、その何かとは何か。私はそれを生きる意志と呼ぼう。意識にはのぼることのない意志であるから、本能とと呼ぶのがよいのかもしれない。
 
そのような記憶の一つ、上野に夜桜を見にいったときのことを、暗箱の底をさぐって取出してみよう。病気が動かしがたいものになって、夏に手術を受けた年の春である。
頻尿が心配で外来を訪れたのはその前年の冬のころであったと思う。前立腺の腫大[しゆだい]はいうほどのことはなく、半年後の受診を約して一応の安心は得たものの、頻尿と尿道の奥の排尿時における沁みるような感じはつづいて、春のころには、どうかすると血が混じっているかと思われる尿の色を気にしたりしながら、再診を乞うのがこわく、何事も気のせいと自分をごまかして、一日一日をやり過ごしていた。今になっつ思えば、わが怯懦[きようだ]は声をあげたくなるほどのものだが、私は自分から目をそらし、逃れようとし、一方では手遅れだとする深い怖れに苛[さいな]まれていた。身と心の疲れは人の目にも映るらしく、言葉に出して心配してくれる人もいて、怖れはつのるのだった。
夜桜見物は覚悟の花見という気持があった。夜桜の下で、ぼんぼりの光に浮いて、弁当を開く。いちど、そういうことがしてみたかった。妻と二人、にぎやかな車座と車座のあいだに小さく場所をとって、しずかに酒を呑んだ。桜の山は人の山がいい。あたりは騒々しければ騒々しいほどいい。そしてこころはしんしんと寂しかった。花が散り、隣りの連中が酔にまぎれて枝を揺さぶると、満枝の花はたまらずふぶきと降りかかって、喚声が沸き、花は膝の上の折詰にも散った。 
村上華岳の初期の作品に、「夜桜之図」と題する、とろりとして、男女ことごとく狐に化かされたか、それとも尻尾でもありそうな、妖[あや]しい感じの一枚がある。
その感じだった。私は花に疲れ、花に憑かれて、正気をうしなった。以来、病気が確定したときも、入院と手術のときも、外来治療に移って三年になる今日ただいまも、狐に化かされつづけているのだと思うことがある。そして誰かが、肩に手を置いて、「君は無病だよ、息災だよ」と言ってくれる日を待つ気になる。それが、ほかならぬ、息の止む日だと、知っていながら。