「つゆのあとさきを読む(抜粋)ー谷崎潤一郎」岩波文庫“谷崎潤一郎随筆集”から

ここでちょっと私交上のことをいわしてもらうのだが、私は実は、近年信書の往復はしているけれども、従来殆ど荷風氏とは親しく交際したことがない。それというのが、青年の頃、自分の最も敬慕するこの先輩に思いがけなくも自分の書いた物をいち早く認めて下すって、『三田文学』の誌上で過分な讚辞を賜わったために、はにかみやの私はかえってこの人に近づきにくくされたのであった。そこへ持って来て荷風氏の方も余り友人を作るのを好まれない風が見えた。まあそんな訳で、最近にお目に懸ったのが既に八、九年も前であるから、私は、氏の生活ぶりについて何も知るところがないのである。唯、大正九年か十年頃に「雨瀟瀟(あめしょうしょう)」を読んだ時は、氏の孤独陰惨な境涯をお察しして思わず慄然とした。今原文を引くことは出来ないが、あの中に、「詩興湧き出ずる日は聊(あささ)か慰むる術もあるけれども、そうでない時は蕭殺たる心情の遣り場がない」という意味の語があって、当時私は、家庭の事情から自分もあるいは孤独生活に入るのではないかと思われたので、四十過ぎてのそういう侘びしい遣る瀬ない独身男の哀れさを、人
事ならず身に沁みて読んだ。私はいつも、荷風のように妻もなく、子もなく、友人もなく、ときどき気の合った茶飲み相手を拵えるぐらいで、全くの独りぼっちで暮らしていたら、それこそ心行くまで創作に耽ることも出来、花鳥風月を楽しむ余裕も出来て、さぞしんみりと落ち着いた気持になれるであろう、芸術家の生活はああでなければいけないと、遠くから氏の身の上を眺めては羨やんでいたものであったが、なるほどそれも「詩興湧き出る」ことを勘定に入れての想像であって、ひとたび創作熱が衰え、芸術的感興が涸渇してしまったら、老境に及んでの鰥寡(かんか)孤独な生活ほどみじめなものはないであろう。尤も、盛んなる体力と飽くことを知らぬ情慾とがあればまた紛れる道もあるが、日本の文人はこの方面において西洋人ほど強靭ではなく、じきに疲れたり覚めたりする。だから若い時分はには享楽主義だの耽美派だのといっていても、早くも肉体に秋が訪れる年齢になれば、自ら芸術に対するその人の態度にも変化が生じないではいない。思うに荷風氏は、長い間心境索落たる孤独地獄の泥沼に落ち込んで、苦しく味気ないやもめ暮らしの月日を送りつつあ
るうちに、いつか青春時代の詩や夢や覇気や情熱やを擦り減らしてしまって、次第に人生を冷眼に見るようになられたのであろう。享楽主義者が享楽に疲れるようになれば、大概はニヒリストになるのが落ちであるが、氏もかくの如くにして当然の経路を辿られたかと思われる。
ただ、私が驚くのは、長年月の寂寞と空虚とにかなり心身を荒(すさ)ませたらしい氏が、今日もなおこういう丹念な労作をコツコツと続けられることである。氏はわれわれと同じく現代の作家の一人であるけれども、われわれのように原稿料に依食する人でない。また今更文壇的功名心や野心に駆られるはずもない。もともと世を拗ねているのだから、恐らく世間の毀誉襃貶(きよほうへん)や批評家のいうことなどを眼中に置いてはいないであろう。とすると、氏もまた昔の志那の文人のように、退屈しのぎに人形細工をされたのであろうか。
私はそこまで思い切って断言することを憚るけれども、この小説にも幾らかそういう気味合いがあるように感ずる。「芸術的感興なんて、もうそんなものは持ち合わせない。心理がどうだの性格がどうたのって、そんな面倒くさい詮索もイヤだ。己(おれ)は唯自分の見た女や男を玩具の人形にして暇ッ潰しをするだけだ」と、作者がそういっているような気がする。しかもこの小説の面白味は作者のそういう無頓着な書き方に存する。偶然の出会いが多いことなども、一つには古い形式に対する愛着にも依るのだろうが、一つには、その方が筋を運ぶのに都合がいいので、多少不自然になろうがどうだろうがお構いなしにやってのけたという風に見える。だがそれでいて、長年の修練と琢磨の結果作者の客観の鏡が玲瓏(れいろう)と冴えているために、その前を去来する影像を明瞭に写し出している。努めずして物の形が表面に映るように、筆が自然と描くものに髄(しかたが)っている。もうここまで来ると、感興だの創作熱だのと力み返るのが馬鹿々々しいかも知れない。あくびを噛み殺しながらでも、遊び半分の手すさびでも、これだけのものが書
ければ結構な訳である。
とにかく私は、この作者が最も肉欲的な婬蕩な物語を、最も脱俗超世間的な態度で書いているところに、 ー そして、なにもむずかしい理窟をいわずに素直に平凡に書き流しているところに、 ー いかにも東洋の文人らしい面目を認める。勿論すべての作家にそうありたいと望むのではなく、私自身もそういう態度を取る者ではないが、しかし現今のような文壇にこういう作家のこういう作品もたまにあって欲しいと思う。ぜんたいわれわれの伝統からいえば、小説というものはこの程度に人間の動きを写せばいい訳なのだ。少なくともかくの如き作品に対しては、「性格が描けていない」とか「タイプだけしか出ていない」とかいう風にばかり見たがらないで、作者がいかに材料を扱っているか、その扱い方にも眼をつけるべきだ。芸術品の持ち味はどういう所にころがっているか分からないもので、何も性格を描くばかりが能ではない。大勢の人物を登場せしめてそれを書き分ける時なぞ、タイプだけ出ていれば沢山で、そう一人々々の性格まで書けるはずもなく、そんな必要もない。それにまた、もともとタイプ以上に人間が描けるかどうかも疑問である。西
洋流に内部へ細かく掘り下げて行くのもいいが、そのためにかえってうそらしくなったり、独り合点になったり、イヤ味になったり、やにッ濃くなったりする嫌いがないでもない。昔の作家が人間を人形の距離にまで遠ざけ、あるいは全く機械の如く扱ったのも一理あると考えられる。