(巻十九)深川や低き家並のさつき空(永井荷風)

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7月28日土曜日

台風が来るなか、息子はスーツを着込んで出掛けていった。
「どこ、行ったの?」と細君に尋ねたら。
「“とんぼとり今日はどこまでいったやら(千代女)”」と返してきた。

蕎麦を食べに行ったわけではありませんが台風接近で一日中雨に降り込められて家に居て、載せる写真もございませんので以前吉楽さんで撮した写真を載せてさせていただきました。

蕎麦のついでに、コチコチして置いた在庫を整理いたします。水上勉氏と云うことでコチコチいたしましたが、我が随筆控帳に入れるのが嫌になりましたので放出してしまうことにしました。同じこの文庫本から立川談志さんの蕎麦随筆をコチコチしてあります。私には談志さんの蕎麦の方が美味いのでそちらは“採ります”。

そばの日々 - 水上勉」文春文庫 そばとわたし から

旅を好む私は、月の半分は家にいない。
したがって、外で物を喰う日が多いのだが、見知らぬ町か村里で、ある日は駅前通りで、うまいそば屋を探すときの興奮はまた別のよろこびである。
いつからそば好きになったのか、たぶん少年時代に寺にいた時に、外へ出ると、そばは安いたべものでもあったので必らず喰って帰った習慣のようなものが、いまも残っているのだろう。世間によく見かけるそば通とでもいえる人のように、そばのことにくわしかったり、またうまい店を探して、かりにそこのがおいしければ通いつめるといった何々そばへの執着や、店への愛着といったものもないのである。ゆきあたりばったりといってよい。
いったいそばが好きなら、どこにいたって、そばを探して喰えばいいのであって、それがどこそこの店でなくてはそばでないぞ、とやかましく宣伝してまわる人に出あうと、ずいぶんこの人はそば嫌いだなと思ったりする。女が好きで好きでならぬ男がいるようなものだ。痩せた女も、肥った女も、それぞれ個性があってよろしい。何々にかぎるなどという女好きも困ったものではないか。
旅先でぶらりと入った店が、まことにおいしくて、せいろなら二ツ喰って三ツめを注文しそうになって考えるほどの店というのはある。もちろんおいしい店に出喰わすとうれしいものだが、といって、まずい店であっても、それはそれでよろしいのである。
ひたすら諸国を歩いて、好きな女にめぐりあうよろこびを夢見ることに似ている。女に裏切られれば、またつぎの女にうつればいいのである。
信州上田のかたなやのそばは、さて女でいえば、古女房ともいえる味の方だが、つまりここはなかなかかわらない。いわゆるおろしそばで、つゆのかげんもいい。
そばも独特の歯にこたえる堅さが心にくいのだが、店の適度なふるさと、せまさ、それに働いている人達の姿がいい。
軽井沢にいる時は人にたのんでしょっちゅう、おみやげ用のを運んでもらっているが、青首大根のでっかいのを一つつけてくれる。涙が出る程うれしい。つゆの方は、ウイスキーの空瓶に入れてくる人もある。それはそれでまたよい。
この間、会津若松で土地の人にさそわれて、おいしい店に出あえた。ネギも青首大根も、それからつゆかげんも、そばが堅めなのも、かたなやに似ている。店へ出てきた三十前後の女が、背中に子をくくりつけている。子はまるい目をあけて、私の方をみたが、べつにぐづるというわけでもないのだった。母が働く背中にくくりつけられていることに馴れいるらしかった。若い夫婦が二人ではじめた店にしては、味にどこやら古風さがあった。店内もちょっと変って一部に炉が切ってあって、六人位がそれを囲んで、へり板で喰えるのだ。私は酒を所望して、かけそばでちびりちびりやった。奥から鉢巻きをした男があいさつにきた。
「おほめにあずかりうれしゅうございます。永年上田の方で修業してまいりまして、三年程前に在所へもどって開業しました。どうぞごひいきに願います」
主人というにしては、まだどこやら板につかぬ感じがあって、子を背負った女は新鮮な女房なのだろう。
「上田で修業というと、かたなやさんでしたか」
と聞いたら若主人は眼をまるくした。
「はい。左様でございます。きびしい親方で八年間ぴっちり仕込まれました。おかげさんで、会津へもどっても味だけはほめられます」
仕込まれた八年の歳月で、かたなやのやり方を身につけ、それを会津にきて固執しているのである。信州上田から、会津の若松まで、頑固なそばの味が移って生きているのであった。
帰りがけに「これ」といって主人は私に青首大根を二本手わたした。
「あっしが畑でつくったものですよ。どうぞめしあがって下さい」
旅先で大根をもらう日もめずらしかった。これも、そばあればこそのことか、とも思うが、いろいろな店があってもいい。だが心がぬくもる店というのは少ないのである。