(巻十九)能面の万媚の笑みを花と見む(石原八束)

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8月26日日曜日

カーテンとシーツの洗濯日和かな(潤) 

*夕食の際に細君にこの句を披露したが、酷評されました。

とにかく暑い。ベランダで竿にシーツの洗濯物をかけるだけで汗だくになる。

こんな酷暑の真っ昼間に止せばいいのに角川俳句を捲らんと図書館へ出掛けた。
こんな酷暑のなか出掛けたのに

失せ物ひよいと出て来る蝶の昼(西本郁子)

だけしか書き留めたくなる句はなかった。

毎月行われている図書館の映画鑑賞会はご覧の理由でしばらく中止のようです。

図書館から生協に回り買い物して帰宅したが、完全にバテてしまった。

コチコチ読書、

「柏原兵三『徳山道助の帰郷』 - 南木佳士」文春文庫 青春の一冊 から

は二頁弱でしたので朝・晩・朝の読書で読み終わりました。

「 この小説を書いたとき、作者の柏原兵三氏は三十三歳であった。そして五年後、三十八歳で亡くなっている。あえてこの若さで、と書かないのは、私が医療の現場で見ている死が、人の死は早すぎるが遅すぎるかのどちらかしかない、という先人のうがった警句どおりであることを認めざるを得ないからである。
この作品の中には、作者の死生観が色濃く投影されているが、その枯れて深い様は、どう見ても三十三歳の男のものではない。多くの死と対面する医療従事者は、ある程度の年齢になると、楽観論者か運命論者になる以外、自らを生かし続ける自信がなくなるものだが、私は限りなく後者に近づいている。今、そんな視点からこの作品を読み直すと、作者はすでに書くべきことを書き終えたのではないかと思えてならない。 」

*もはや早すぎる死はないので、いつ死んでも遅すぎる死になるなあ。それはそれでいいのだが、問題は死に至るまでのプロセスだ。美しい死など望める歳ではないが、意識のあるうちは自分で便所へ行きたい。小用の方は管を差し込んでの処置を三年前の入院で経験している。私の場合は苦痛も不快感も無かったので、そちらはあまり迷惑を掛けずにそれほど見苦しくもなく逝けそうだ。問題はベットパンとかダイアパーの方の“大”問題だ。看護師さんから、動くのが辛かったら言ってくださいねと言われたが、“大丈夫です、自分で行けます。”を繰り返した!尊厳ある死を実現するためにこの方面の技術開発も是非お願いいたします。それから、意識がなくなったら、早く逝かせてください。

晩からは

「蘊蓄 - 筒井康隆講談社文庫 創作の極意と掟 から

をコチコチ読書し始めた。