2/2「フェアプレーか無私か - 山折哲雄」中央公論新社刊 こころの作法 から


2/2「フェアプレーか無私か - 山折哲雄中央公論新社刊 こころの作法 から

さて、司馬遼太郎が好きだった剣客が千葉周作だった。東北は盛岡藩の馬医者のせがれで、北辰一刀流を編みだした。諸国で武者修行をしたあと江戸にのぼり、神田お玉ヶ池に道場を開いた。門弟三千人といわれているから凄いものだ。水戸藩徳川斉昭の剣術師範もつとめた。幕末屈指の剣客だったといってもいい。
司馬遼太郎千葉周作を主人公にして小説『北斗の人』を書いたのが昭和四十(一九六五)年のことだった。波瀾にとんだその半生を生き生きと描いているが、作者が千葉周作に惚れこんだ理由は、かれの剣が無駄のない合理の剣だったところにある。短時日のうちに技を教え、剣の極意を体得させる点にあったようだ。門弟三千人を抱えることができたのも 、おそら くそのためだったのだろう。同じように合理の精神を重んじた宮本武蔵のこころのありかを、それは彷彿させる。
『北斗の人』の巻末近くに、千葉周作の「一夜秘伝」といわれている話がでてくる。
六十をすぎてから周作は病床に臥す日が多くなった。死ぬ前年の六十一歳のときだった。ある日の夜、見知らぬ者の訪問をうけた。さる大名の茶坊主で、春斎と名乗った。その者がいうには、今夕、主家の急用で駿河台までくる途中、御持院ヶ原で浪人の辻斬りにあった。春斎は、いま殺されるわけにはまいりませぬと、その辻斬りに命乞いをいた。主家の御用の中途なので、殺されてはこの御用がはたせない。きっと、帰路に殺されてさしあげる。しばしの猶予をいただきたいというと、その辻斬りは主家の定紋をみて、見のがしてくれた。今ようやく用をはたし終えたので、これから御持院ヶ原に引き返そうと思う。ただ自分には剣の心得がない。それで立派に斬られるにはど うしたらよ いかを教えていただきたいと思って、高名な先生の門をたたいたのである........。
それをきいて周作は感動した。病床から立ちあがったかれは、枕頭(ちんとう)の太刀ををとり、すらりと抜いて茶坊主にもたせた。大上段にふりかぶらせ、脚の開き方、呼吸のつかい方、丹田(たんでん、へその下、腹の奥)の力の入れ方などを手をとって教え、最後に
「目をつぶるのだ」
といった。そのままの姿勢でいると、やがて体のどこかで冷っとする、そのとき刀を打ちおろす、そうすれば、醜くない死に方ができる、と。
そう教えられた春斎は大変喜んで、そのまま約束の場所にとって返した。待ちかまえていた浪人が剣を抜き、正眼につけて迫ってくる。春斎はいわれた通り、上段にふりかぶって目を閉じた。「すでに冥土にいると思え」と周作にいわれた通り、かれは生きる執着を去っていた。
四半刻(しはんとき)ばかり、二人はそのまま対峙していたが、ついに浪人は飛びのき、剣をおさめて
「よほど使える」
と、逃げるように立ち去った。
このとき周作が春斎に伝授したのが、日ごろからいっていた「夢想剣」の極意というものだった。春斎は生きのびるつもりがなかったために、剣士が生涯かかって到達しうる心境に、一瞬で到達したのである。
翌年、千葉周作はこの世を去るが、あとに建てられた墓石には、かれがもっとも好んだ言葉が刻まれているという。

それ剣は瞬息
心気力の一致

剣は一瞬の気合だ、というのであろう。
私ならさしずめ

それ剣の道は
フェアプレイの精神か
生きる執着を去った無私の精神か

と問うてみたいところだ。
地下の千葉周作斎藤茂吉のご両人にそうきいてみたいような気がする。