1/2「書について - 山口瞳」新潮文庫 礼儀作法入門 から

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1/2「書について - 山口瞳新潮文庫 礼儀作法入門 から

下手な字の活かし方

書とまではいかないが、書く文字について、私はずっと劣等感を抱き続けてきた。私は字が下手だった。
字の下手な人には何種類かがあると思う。学生の頃、教授の講義をすばやく正確にノートすることはできるのだけれど、字そのものはあまり上手ではないという人がいる。手紙や会社内での事務連絡のメモには美しくて読みやすい字を書くけれど、筆でもって字を書くと滑稽なくらいに下手な人がいる。反対に、筆でもって書くと達筆で会社内で重宝がられている人がいる。こういう人は「寸志」とか「御霊前」なんていう字は天下一品というぐらいにうまい。しかし、そのわりに万年筆で書く報告書の字などはうまくない。あるいは変にくずして書くので読みにくく仕事に支障をきたすことがある。
私はそのどれでもなかった。学校でノートを取るときに筆が早くないので、半分も書きとれない。全部書こうとすると、あとで自分でも読めないくらいに乱れてしまう。会社内の会議のメモも同様だった。ハガキや事務連絡の文字は妙にいじけて、ちぢこまっている。
私はずいぶん苦労した。右下がりにしたり、右肩上がりにしたり、あるいはタテ棒もヨコ棒もまっすぐにして表情の乏しい文字にしようとしたりして、私なりの工夫もしたのであるが、まるで形にならない。癖のある字を書く人がいて、それはそれなりに一家をなしている人がいるが、私の字はそれでもなかった。
字が下手だということは人格まで貧しく思われそうで、それが厭だった。
しかし、そのうちに、あれは昭和三十五年か三十六年の頃だったと思うが、自分の字はそれほど下手ではなくなっていると思うようになった。すくなくとも劣等感からは解放されるようになった。
なぜそうなったかっいうことを今になって考えてみると、なんといっても、原稿用紙に字を書くという職業(コピーライター)のために、人よりはずっと余計に文字を書き続けてきたからである。その頃、私は雑文を書きはじめていて、出版社でも評判になるくらい、きれいな原稿を書いていた。(清書しているのではないかと言われたことがある)
しかし、月産五百枚とか七百枚とかいう流行作家でも、依然として字の下手な人がいる。たくさん書けばうまくなるとは限らない。
私は自分が字が下手だと思っていたので、丁寧に書くことを心がけた。それがよかったのだと思う。また、わかりやすく書くために原稿用紙の桝目いっぱいの大きな字を書いていた。それもよかったと思う。字の下手な人は字が小さい。
また、大きな字は大きく書く、小さな字は小さく書くようにしていた。たとえば手紙もよかったと思う。反対にすると見られなくなる。ためしに「中」「一」を大きく「村」「郎」「様」を小さく書いてみるとよくわかると思う。
さらに、自分用の特製の、桝目の大きな原稿用紙を使っていたのもよかったと思う。文字は四角く書くことを心がける。縦長でも横長でもいけない。だから、原稿用紙を使うのがいちばんいい。