(巻十一)それぞれに名月置きて枝の露(金原亭世之介)

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6月18日日曜日

三島由紀夫の「作家論」は途中棄権しましたが、伊藤整が展開する作家論「近代日本人の発想の諸形式(岩波文庫31ー096ー1、新橋駅前の古本市(写真)で百円で購入)」はなんとか読み続けております。

知の森に迷ひて涼し古書の市(山崎茂晴)

その42頁に以下の文章があり、書き留めましたので、紹介いたします。

だが現世を放棄したものにとっては、実在自体が美しく意識される。対人関係から解放されたとき、急に空の美しさ、山の美しさ、木の葉の美しさなどが意識される。人の姿の美しさもまた日常の生活を共にしている人間に対しては感じられず、自分と利害関係を持たない異性に突然逢った時に強く意識される。そういう肯定的な生命感が最も強く感ぜられるのは、その人間が死ぬことを意識したときである。自分の生命が無に帰し、この世の自然と人間の総てが自分から失われるという意識を持っている人間にとっては、虫も木の葉も、嫌悪と憎悪とで今まで接していた人間も、悉(ことごと)く美しい本来の姿を現わす。なぜなら、その人間にとっては、その時、現世における利害の争いと虚栄の執着が失われ、自然と人とは、その単純な存在として意識されるからである。
そして現世否定によって安心感を得る傾向の強い日本人は、現世の場における力や力の戦いを描くのが下手である。そして遁走的生活によって自然の美を新しく見出すと同時に、死の意識によって、人と物との個としての生命を把握することが、伝統的に巧みである。
近代の日本文学では、そのような死または無の意識によって描かれた短い小説で名作と言われるものが多い。志賀直哉が大怪我をしてカリエスになることを気づかって、温泉にいた時の自然のスケッチである「城の崎にて」、結核患者である堀辰雄や、尾崎一雄島木健作梶井基次郎の短編小説のあるもの等は、その描写の美しさと鋭さによって強烈な印象を読者に与えるが、それは、死の意識の上に根本から発見された生命の姿であるからである。

絶対の安堵に死とふ涼しけれ(密門令子)