「霊を受け入れる柔和質直な心ー美輪明宏」新潮文庫“こんなふうに死にたい”佐藤愛子の巻末から

「霊を受け入れる柔和質直な心ー美輪明宏新潮文庫“こんなふうに死にたい”佐藤愛子の巻末から

私は十代の頃は、無神論者であった。神や仏や、諸々の霊なぞと云うものは、他力本願の宿り木の如き弱虫のたわ言で、しゃんとしたマトモな人間の云う事ではないのだ、地獄も極楽もあの世なんぞあるものか、地獄極楽はこの世にこそあるのだ、と確信していた。
戦前のエログロナンセンス、抒情味たっぷりなアール・デコの時代の時代に長崎市の色街に生まれ育った私は、生家がカフェ、料亭、風呂屋、金融業を手広く営んで居た縁で、種々(いろいろ)な人間達の本音と建て前の佇まいを、擦枯らしの女郎の如くクールに観ていた。私にとって霊験妁(あらた)かなる法力とは神仏のそれではなく酒と金こそが、この世の人間共の全ての本性を発(あば)きたてる神通力だと信じ切って居た。白日の下で、どれ程行ない澄ました聖職者や学者や権力者であろうと、宵闇せまり紅燈の下ではヤッコラサと仮面を脱ぎ捨て、両頬を札束で擽(くすぐ)られ、酒を浴びさせられれば忽ちヘロヘロと本性を露(あら)わし女の股間で狂態を演じる。正に私の幼少時の眼差しは、ひねくれていびつな作家の眼さながらに、人間達を斜めに観ていた。
そして、やがて無理が通れば道理が引っ込む軍国主義の理不尽な世の中になった。おまけに御丁寧な事に仕上げが原爆と来たものだ。私は地獄を見た。この世に神も仏もあるものかという私の思いは決定的なものになった。物心ついた頃から、心清らかな娘達が様々な事情で女郎や芸者に売られて来て、真赤に泣き腫らした眼がやがて荒(すさ)んで痩せていく過程を見て育ち、この世にはこんな哀れな人達を助ける神様や仏様と云うものはないんだな、もし本当に神仏が在(お)わすならばこんなに純な人々をこれ程不幸なままで放って置かれるわけがないもの ー と、思い続けていた私に原爆は最終的な答えを出してくれたのである。
そして戦後の焼け跡、闇市。建物ばかりか人の心も文化迄もが灰塵と帰した廃墟の中を、人々は弱肉強食の獣と化して生存競争を始めた。だが私は素晴らしい上級生の御蔭で芸術の世界へ逃げ込む事が出来た。私は醜い現実から逃避して夢の中で生きた。が、それも束の間、長崎より上京し国立音大の附属高校へ入った私は一年で中退し再びこの世の地獄へ戻った。山谷暮らし、行き倒れ、ポン引き、数々の雑多な水商売、私の無神論唯物論の信条にいよいよ筋金が入った。
その後、幾年かの不遇の時代を経てやがて神武景気、私もスターとして絶頂期がやって来た。そしてその時、同時に四次元の世界から見学の招待状もやって来た。視覚・聴覚・触覚以外の感覚で物事が見え、理解出来る様になった。私の唯物主義、無神論は徐々にゆらぎ始め、長い時間をかけてゆっくりと溶けて行った。そして地獄を見過ぎた為、頑迷で曲りくねっていた私の心も少しずつ軌道修正され素直になって行った。あたかも辛酸を味わい尽くした水商売の女が世の荒波に角々を削られて丸い玉になるが如き態(てい)であった。この世の種々の辛苦を知る者は次第に謙虚となる。いかに己れが此(こ)の宇宙の諸事を知らぬものであったかと云うことに眼覚めるからである。故にこの世の辛苦をさして感じた事のない者は傲慢なる人間が多い様である。中には例外で苦労知らずでほんわかとして、生まれながらに仏性そのものと云う柔和質直で、物事に疑いの心なぞさらさら無い御仁もたまには居るが、それは全く稀である。
粗方(あらかた)の苦労知らずは、この世の事共も又知らぬ。知らぬ者は、無知蒙昧の輩であり例外なく傲慢である。傲慢なるものは己れの卑小さに気附かずに居る。この類(たぐい)の人間は主に中途半端な小者のエセインテリに多く見受けられる。科学者だの医者だの学者だの文化人・知識人と呼ばれるジャンルの人間達であるか、はたまた実利一方主義の無教養で頑固な蛮族である。「そんな馬鹿な、この近代科学の世の中に、科学で実証出来ないものを信じるなんて、貴方の妄想か精神の疲労か混乱から来てるんですよ」と高所から宣(のたま)うのである。だが私が、「はい然様(さよう)で御座んすか、それ程、科学様は御偉くて万能でオールマイティーでいらっしゃるんですかね。」とやり返すと大方の人は黙ってしまう。
この宇宙、この世界、この国、この町、この躰、これ等の事共のどれ程を人間が知っているというのであろうか。或る医大の教授が、「今の科学じゃ人間の体の仕組は未だ三十パーセントも解っちゃいないんですよ」とおっしゃっておられたが、これは正直で謙虚な方である。通常の医者や科学者は、超常現象や己れの無知なる部分を認めれば沽券にかかわる、それを認めれば科学者として医師としての負けだ。それ等を否定すること事こそ立派な科学者で常識ある人間だと思い込んでいる。この姿こそ小心翼々とした哀れむべき根性である。頑迷と云う事は愚か者だと云う事である。聡明なる御仁は素直で謙虚である。「超常現象なんてあるわけありません」とそれに対する勉強も研究も体験もせず何の知識もない癖に頭から否定してかかるのが傲慢なる愚者の発言であり、「この世の中には自分が知らない事はまだまだ山の様にあります。私には知識も経験も無いのでわかりません」と発言する人が聡明で謙虚な人なのである。いささかくどい様ではあるがこれは声を大にして云わせて頂きたい事である。関西流に云うならば「科学がなんぼのもんじゃい」となる。核廃棄物も処理出来ぬ
どころかゴミ問題、ゴミ一つ処理も出来ぬ。エイズやガンどころかハゲ頭一つ、白髪一本でさえも治す事は出来ぬ程、科学とは無力なものではないか。科学なんぞと云うものはまだまだ開発途上の野蛮なものなのだ。


(ここまでコチコチとやって来たが、文章としてこれ以上コチコチやるのは意味がないと結論した。全編の凡そ半分のところで止めたことになる。後半にも読んだ限りでは初めの四分の一に相等する文章はない。
なお、この文章は1992年に書かれたようである。)